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『ジョジョの奇妙な冒険 スターダストクルセイダース』 第 46 話「DIOの世界 その 2」

ついに……ああ、ついに彼が逝ってしまった。そう、我らがウィルソン・フィリップス上院議員である。大国の要人すらたやすく殺害する DIO にとって、「世界」征服は夢物語ではないのだろう。だがそれは悪夢に他ならない。しかし悪夢と言えばこの男。そう、我らが花京院典明であるッ! 「世界」には「結界」を。遠距離操作型が得意とする距離を保ちながら、攻撃と洞察を同時に行う。さすが花京院ッ! その理知にいつだって皆助けられて……花京院――――ッ!?

さて「世界」初披露となるこのシーン、アニメ版は原作と演出を変えてきた。今回する話は、「これはこれでありだと思うけど、原作のこの部分は本当に凄いシーンなんだぜ」というものです。

花京院の凄さと、それを上回る DIO の凶悪さ

まずカーチェイスのくだりで、花京院は「世界」の射程(約 10 m)を割り出しました。そして彼は策を繰り出します。「相手の射程の外側から、回避不能の攻撃を行う」。遠距離操作タイプが近距離パワータイプと戦う場合の基本戦術です。「世界」には大きな謎があるものの、射程(約 10 m)を超えて攻撃を行うことはできない。射程を延長する手段(投擲やスターフィンガーなどの特殊攻撃)を警戒し、たっぷりと「半径 20 m」は距離を取っておく。たっぷり。からの、全方位「エメラルド・スプラッシュ」! 何らかのダメージを期待できる上、その後の DIO の対処から「世界」の謎を看破できる。これ以上は無いといっていい戦術ではないでしょうか。「だが」。

結論を言います。「世界」とは「時を止める」スタンドでした。止まった時間の中にあっては、何人の意識も、どのような能力の作用も(これは諸説ある)停止する。静止時間内を本体含めて移動できるのであれば、「射程 10 m」という情報なぞゴミ同然です。……そして花京院は自分がなにをされたのかも理解できないまま接近され、腹をぶち抜かれてしまいました。

これです。「ここ」だと思うのです。アニメ版はこの謎解きパートを更に先延ばしにしました。それはそれで面白味や意味は存在していたと思うのですが、やはり原作のインパクトには勝てない。なぜなら、ここは花京院という男の凄さを DIO が圧倒するシーンであり、その「圧倒」の理由、「時を止める」能力という理不尽さ、それらを展開する最高のタイミングが「ここ」であったからです。花京院の「半径 20 m エメラルド・スプラッシュ」という凄まじい「動」を、「世界」の「静」で上書きしてみせる、この「カウンター感」こそが、「世界」お披露目の衝撃を最高の形で演出しているのです。まさに我々読者は、それが「世界」を支配するに足る能力であると、知らしめられたという訳なのです。直前に DIO が口にした「知るがいい」とは、そういう意味の言葉なのです。

アニメ版では、「結界」に対し DIO が「世界」を発動させた直後、花京院はもう腹に大穴を開けられていました。これはこれでアリなのです。面白い。ジョセフ視点の「花京院がいきなり吹っ飛ばされている」感覚を追体験することができます。しかし違うのです。それは原作既読者が、「これはこれで」と面白がる為の演出であり、アニメ版で初めて「世界」を知る方々が最高の体験をする為の演出ではない。

恐怖を乗り越えた花京院と、遺志を継ぐ男ジョセフ

原作では既に晒された「世界」の秘密ですが、その時点で知っているのは読者だけです。ジョセフは因縁の敵に、どうやって立ち向かうのか。まだその謎すら解き明かせていないというのに。一方花京院は死の淵に面していました。再起不能(リタイア)ではありません。死ぬのです。間もなく訪れる死を前にして、花京院が思うのは両親のことであり、「世界」の謎についてでした。触れれば発射される「法皇」の「結界」が、発動することもなく、全て「同時に」に切断されていた。きっと花京院の脳裏には、先のポルナレフの言葉や、棺をヌケサクに開けさせた際の奇妙な現象などが過ぎったことでしょう。そして至ります。「世界」の正体へ。アニメ版ではまだこの時点で種明かしはされません。その後花京院からのメッセージを受けたジョセフが解読し、時が巻き戻り、 DIO が「世界」によって「結界」を打破した詳細が明かされるという運びに変更されていました。再三言いますが、良いんです。これはこれでアリなんです。しかし「最高」ではない。

原作において、読者は「世界」の正体を既に知っています。ですが同時にそれは二つの困難を突きつけられたことにもなります。「解き明かせるわけがない」、そして「勝てるわけがない」。花京院は倒された。ジョセフにすら何が起きたのか分かっていない。この圧倒的戦力差からもたらされる恐怖こそが、原作この時点での「肝」なのです。なぜなら、このすぐ後に、 DIO に敗れたはずの花京院自身が、「解き明かせる筈がない」恐怖を覆してみせるからです。そして繰り出される、最後のエメラルド・スプラッシュ。あらぬ方向へと放たれたように見えるそれは、時計を破壊しました。 DIO はそれを、意味のない行動と受け取ります。ですがジョセフは、託された花京院の遺志を解読し、ついには「時を止める」能力であることを理解するのです。さすがはジョセフ。死に行くものの意思を無駄にしないことに欠けては定評があります。

アニメ版は、最初から最後まで花京院やジョセフたちの視点を視聴者が追体験できる作りにしていました。ジョセフが理解するのと同時に、視聴者も理解する。しかしこのシーンは、そういうシーンでは無いと思うのです。「世界」の正体は、 DIO 自身が最高の演出でもって開示しました。だから直後の流れは、花京院とジョセフによる「逆転」の場面であるべきなのです。敵がラスボスに相応しい最強のパワーを有しているからこそ、その座へと全身全霊で食い下がってみせる花京院たちの姿にグッとくる……ここはそんな場面なのです。一連の流れの全てを「『世界』とは何か」へと一本化してしまったアニメは、原作と比べてやや薄口になってしまった感は否めません。

加えて言うのであれば、時を巻き戻す演出に対してでしょうか。戦いのテーマが「時」にあって間違いではない構成かもしれません。しかし「時は巻き戻らない」のです。死んだ人間が生き返ることはありえない。どんなスタンド能力にも不可能なことなのです。にも関わらず、演出の都合とはいえ、花京院は一度死んで、蘇ってしまった。彼の散りざまは、死の際にあって尚、仲間へと想いを託すためのものでした。決して「世界」の謎解きの一環として使用されるものであってはならなかったはずなのです。

制約との戦い

アニメ版 is ファッキン、みたいな文字列を吐き出してしまいましたが、あくまで原作賛美の記事であることを繰り返しておきます。ではアニメ版はなぜ改変を行ったのか、という話をしますと、あくまで素人の邪推になってしまいますが、「冗長にならないための工夫」であったと解釈しています。「原作通り」という言葉はあまり好きではありませんが、仮に原作通りにやっていたとして、何が起こったか。きっと尺が余っていたことでしょう。尺あまりの予防、その常套手段は、時の流れの希釈、つまりテンポの悪い、「原作通り的なもの」にすることです。そして『ジョジョ』のアニメはそれを良しとはしなかった。

三部アニメは終始「原作を補強する形でのオリジナル」を差し挟んでいました。それは「メディアを変換する際の制約」や「長すぎた尺」との戦いの痕跡でもありました。今回の「世界」のくだり改変は、その戦いの痕跡です。安易に「希釈」という手段をとらず、なるべく原作のニュアンスを壊さずに、かつ視聴者が楽しめるような改変を加えるという方法を選んだスタッフの方々に最大限の敬意を示したい。しかしながら、今話の構成に関しては、原作と比較してややニュアンスの異なる方向へ舵を切ってしまったかなというのが正直な感想です。

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