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『ドラゴンボール超』 - 戦士の末路

「自分の存在が悪いヤツを引き付けてる」って、セル編の終わりに悟空はうっすらと気づいてましたよね。ブウ編ではもう一段階上の視点まで考えを突き詰めていて、「自分がいなくなっても悪いヤツは出てくるだろうから、そうなっても何とかできるように皆を導こう」というところまで至っていました。しかもその為に、これまでやってこなかった「勝てた戦いへの手加減」という戦闘民族らしからぬ手段まで取って、結果として少なくない犠牲まで厭わないという徹底ぶり。かつてセルとの戦いに勝つために、自分ではなくまだ幼い息子にさえ痛みを強いたように、悟空という人間は必要であれば「決断」が出来るんです。ここまでくると最早地球人らしいとは言えず、かといって利己の塊であるサイヤ人らしいとも言えません。本人は認めたがらないでしょうが、そのドライな大局観は「神様」と呼ぶに相応しい。「悟空のような」戦いが好きなキャラクターは他作品に大勢見出せるものの、そんな無邪気さの中に非人間的なまでの合理性が共存しているキャラクターともなると思いつきません。その辺りが「孫悟空」というキャラクターの奇妙な魅力だったのではないでしょうか。

それが今や「戦う相手も理由もなくなっちまったから全宇宙の皆、死にたくなかったら命がけでぶっ殺し合おうぜ!」ってもう、ラスボスのそれじゃねーか。お前もっと物事を冷静に判断できる奴だっただろ。全王様もおったまげですよ。一応作中で触れてくれてはいるものの、当の本人は「オラが悪者扱いか……それでも構わねえ!」みたいな態度だし。いやあなた悪者ですよ。「戦いの楽しさは生殺の外側にあるべき」という信念はどこに行っちまったんだ。そういえば数年後にはウーブという自分の好敵手育成に着手し始める訳ですし、あれだ、美食が極まった美食家は自ら料理に着手するという、範馬勇次郎的な境地だ。いやたぶんね、大方の予想通り、第 7 宇宙が勝ち残って、滅亡した他の宇宙をスーパードラゴンボールで復活させるという流れなんじゃないかなあと思うんです。それが既定路線として存在しているから、脚本上で妙に緊張感が無いというか、この「災厄を退ける側に立っていた悟空が、全ての存在にとって最大の災厄となった」というとんでもない展開にイマイチ乗り切れないんですね。問題はどこまで制作サイドがこの狂気の脚本に自覚的なのかってことです。これが原作や、せめて劇場版鳥山シナリオで行われたなら、「すごいところに踏み込んできたな」って思うんですが、アニメ版なんでイマイチ信用が……。でもベジータが戦いよりも、新しく生まれてくる家族を選択しようとしているのと対比させていたり、大会でのライバルキャラが正義の味方っぽい辺り、もしかしてちゃんと分かってくれてるんでしょうか……いや、でも……。

ところで、ベジータが頑なに「ブルマの傍にいてやりたい」と自分の戦闘欲求を押さえつけている姿を、まるで理解すら出来ない悟空の有様はなんというか、哀しかったですね。ベジータがナンバー 1 だと認めた男の在り方は決してこういうことでは無いと思うのですが、これを理解した上で描いてくれているのなら英断極まりないことです。しかし、果たしてそこまで考えてくれているのか。

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