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『響 〜小説家になる方法〜』

そうさね、そこそこ古きインターネットの巡礼者は、この漫画を読んで「『ハルヒ』の人だ」と思ったそうな。

面白いですよね、この漫画。で、思うにこれは「天才についての漫画」ではないです。むしろ「才能という呪縛から解放される凡人たちの漫画」ではないかと。なんでこんなことを言うのかというと、多分ですが、この漫画を「チート主人公が無双する話」として読むと、人によってはあんまり楽しめないんじゃないかなと思ったからです。社会的モラルに欠ける彼女が成功していく様を見て(彼女自身が望んでないとしても)不快感を催す方もいるのでしょう。あらゆる喧嘩に常勝する姿にしても、対戦相手にとって彼女が「女の子だから」「年下だから」「小柄だから」殴れないという面は必ずあって、そのアンフェアさが醸し出すもやもやを受け入れるのは結構大変なんじゃないかなと。しかしこの漫画のセールスポイントは、間違いなく響ちゃんの「暴」なので、そこが合わない人はもうしょうがない。しょうがないんですが、正直、それはこの漫画の焦点じゃないとも思っています。

響ちゃん、いえ、響様は、天才というよりはある種の英雄であり、「いつか星座になるんじゃないの」との言葉通り、正真正銘歴史に名を残す有数の偉人として設計されています。だから今後彼女が挫折したり、ライバルキャラに叩きのめされたりする姿は拝めないと思うので、期待すべきではないでしょう。最終的には分かりませんけどね(保険)。

この漫画には自分を天才だと思い込んでいる凡人と、自分が天才でなかった事実に打ちのめされる凡人が登場します。そして響という本物によって平等に薙ぎ倒されていく。前者の凡人は分かりやすく、とりあえず物理的にぶん殴られ、続いて彼女の文学的才能にも殴られ、結果、自分が天才だというのは単なる願望かつ思い込みに過ぎなかったのだと理解します。そして後者の凡人は前者と比較して物理ダメージを加えられることこそ少ないですが、やはり文学属性のダメージでぶっ殺されます。するとどうでしょう。不思議なことに、彼らは一つの真実を啓蒙されるのです。「あ、自分は天才じゃなくても良かったんだ」

この道を行くと決めた人は、誰しもが、多かれ少なかれ自分自身の才能に期待を寄せるものです。自分には才能がある。だからこの夢は叶わなくてはならない。しかし大抵の場合、期待値というものは実際の才能量を超えていて、それ故に自己評価を下方修正しなければならない場面が必ず訪れます。「挫折」です。「燃え尽きた」とか「悔いはない」とか簡単に言いますが、言葉ほど簡単な話ではありません。というか普通、そんなことは出来ません。自分の才能に寄せた期待の熱量を、挫折の熱量は超えられない。焼き付くだけ焼き付いた才能の残像は、凡人であるその人を一生苦しめることでしょう。やがて火傷の痕が消えて、火傷したことさえ忘れるまで、その疼きは続きます。しかし響様との出会いによって、彼らには別の結末が用意されます。

彼女によってもたらされるのは、圧倒的な敗北です。そしてそれは挫折などというチャチなものでは断じてない。なぜなら目の前に現れた本物の天才は、かつて思い描いた「最高の自分」すら遥かに凌駕するからです。ならばもはや、自分にとっての理想など些末な問題でしかなく、「自分自身の期待に応えられなかった」という失望にも繋がらない。ちゃんと戦って、ちゃんと負けた。完璧な敗北によって、凡人たちは才能という枷から解放されるのです。「天才じゃないんだから、『自分』にできることだけやってればいいじゃん」と。だから響と関わった人たちは皆一様に表情が軽くなる。身の程を知って、その上で客観性の高い目標にシフトし、或いは全く別の道へと歩き出す。『響 〜小説家になる方法〜』とは、天才による凡人救済ストーリーなのです。

なので、まあ漫画なんて工夫を凝らしてまで読むものでもないのかもしれませんが、嫌いな食べ物だって出来れば少ない方がいいと思うので、ちょっと見方を変えてみれば読み味も変わるかもしれませんよ、ということで一つよろしくお願いします。

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