ので、ちょっと吐き出すし、ネタバレをするし、書き終わったら横になる。
何かが完結するということは、そのコンテンツのコアが自分にとって何だったかを突きつけられる事を意味すると思うんですが、人によっては人類補完計画の解明だったかもしれないし、痛快な戦闘シーンだったかもしれないし、キャラクターたちの行く末だったかもしれない。リアルタイムで大分のめり込んでいた自分にとって、『エヴァ』のコアとは「LAS(シンジと惣流(式波)・アスカ・ラングレーのカップリング)」だった……のだと、思い出しました。未だ人様のレビューは読んでないんですが、たぶん詳細な考察とか『エヴァ』に絡めた自分史のようなものが溢れかえっていると思います。自分としては全盛期の頃ほどの熱が無く、そういったレビューを読み漁りはしても書き残しはしないかなと予想していました。このざまです。
嫌な予感はしてたんですよ。ケンスケの前で惜しげもなく裸体をさらすアスカに。ただあそこに関しては、エヴァの呪いや境遇もあって精神的に達観しているとか、元々軍属だから慣れてるだけかなとか色々考えたんですが……「ケンケン」だと? そこからも何となく引っかかるものを抱えながらスクリーンを眺めていて、アスカが自分の思慕を過去形でシンジに伝えるところも、まあ良し。まだ巻き返せると自分に言い聞かせた挙句、精神世界でアスカの前に現れた大きなぬいぐるみの中からケンスケが出てきた時、いやあ、呼吸が止まりましたよね。自宅だったらたぶん停止ボタン押してちょっと休憩挟んでたと思う。というかあそこのケンスケの「アスカはアスカなんだ!」みたいなセリフもキツくないですか。すごい凡庸なセリフじゃないですか。誰にでも言えるんですよ、あんなの(その程度のことを周りの大人が言って来なかったとも言えますが)。つまりセリフの内容ではなく、「誰が言ったか」が重要で、ああいうことを言ってくれる対象としてアスカの中でケンスケが像を結んだ事実がキツくて、そしてその凡庸なセリフに救われるほどアスカが「大人になっちゃった」のが、もう、ええ……?
分かるんですよ。たぶん、ケンスケである必然性なんか無いんです。例えば項垂れて動けずにいたシンジを救ったものが、誰かが放った目の覚めるような名台詞などではなく、彼を労わろうとする人々の普遍的な優しさ、言ってみれば第三村の営みや時間であったように、アスカもまたケンスケという人格そのものに救われたわけじゃないんでしょう。14 年という歳月と、その間に関わってきた人間たちとの間で少しずつ変化を遂げて、そしてたまたま傍らにいたケンスケの存在が、しかし次第に大きくなっていった。アスカの相手役がケンスケである必然性が無い代わりに、ケンスケであってはならない理由もない。誰かに寄りそう人間が特定の誰かでなければならないなんて、そんなのはフィクションです。だから、まさしく「リアル」が彼女を変えたのだと思います。分かる気がしますよ、理屈はね。『エヴァ』という虚構からの脱却を目指したとすればこの上ないアンサーです。
しかし駄目だ。どれほど理性に促されようと、己の本質的な部分が到底承服しようとしない。勿論どれだけ駄々をこねようが意味はないので、この文章の正体はただの「ため息」です。納得できない、それだけ。ですがそれにしたって「14 年後」に目覚めさせられた我々に、「色々あったんだよね」の一言で済ます理不尽さ、尋常の所業じゃねえよ。ラストの浜辺でアスカのプラグスーツがはち切れんばかりになってたじゃないですか。あれはたぶん 14 歳で留まってた肉体が一気に 28 歳まで成長したんだと思ってますが、あの体をケンスケの野郎が好きに出来るんだなと思うと、もう、頭がクラクラする。そういう、惣流の方のアスカに「気持ち悪い」と言われた頃の気持ち悪い自分が再び打ちのめされている。『エヴァ』全盛の頃に「LAS」を喰らい、ゲーム版やゲームブックのアスカルートでもまだ足りず、大量の二次創作を摂取して貪りつくした、あの頃の自分がのたうち回っているのが実感できる。なぜ忘れかけていたものに、二十数年越しにブッ殺されなければならないのか。
それだけです、ただのそれだけ。他にも言いたいことは当然ありますが、自分にとっての『エヴァ』完結、その肝心要はこの一点に尽きる。いやー、すげえよ。沙汰の限りだよ。アスカ派にしたってそうですが、綾波派だって同程度にブン殴られてるわけじゃないですか。大丈夫ですか。生きてますか。コロナ禍で心身の抵抗力が重要視されるこの昨今、よくもまあやってくれたなと言わざるを得ない。緊急事態宣言の延長はこれを予期してのことだったのか。そして真希波よ。まさかアスカ派、綾波派に対して「いつまでやってんだよ」と言い放つ為に用意されたシン・ヒロインの座にお前が納まるとは思っていなかった。
「行こう!」じゃないんだよ。どこ行くんだよ。どこに行けばいいんだよ。