おはようございます。
さてさて、 DLC 発売以来、一層賑わっているように思える『ELDEN RING』の考察界隈。もちろん喜ばしいことではあるのですが、ひとつ苦言を呈するならば、皆様にはもう少し「品格」を意識して頂きたいんですよね。
本作は他の作品とは一線を画す傑作なのですから、そこに付随する考察もまた一定以上の品質を有していなければなりません。厳しいことを言うようですが、皆様の下品かつ下世話な考察が『ELDEN RING』、引いてはフロム・ソフトウェアそのものの品格までも貶めかねない……どうかその自覚を持って欲しいのです。
では「糞」の記事を書いていきます。
あー前から書きたかったんだよな「糞」の記事をもうほんと『ELDEN RING』ってゲームの最重要キーワードなんだから「糞」ってやつはあああ書きたい書きたい「糞」の記事早く書きたいはやく糞糞糞糞糞糞糞糞くそくs
最低と言うには魅力的すぎる。
黄金律とは、エルデンリングとは果たして何だったのでしょうか。
……というくだりに関しては以前何度か書いているのですが、過去記事を読んでくれというのも何ですし、おさらいも兼ねて概要だけでもやっておきましょう。というか今回はそれがメインかもしれない。
「またこいつ同じ話してるよ」と思う方は適当にお読み飛ばしください。
結論から申し上げますが、黄金律とは「濾過システム」です。ただメチャクチャ大掛かりなだけの。
- 死王子の修復ルーン
- 黄金律は、運命の死を取り除くことで始まった
- ならば新しい律は、死の回帰となるであろう
かつて運命の死は取り除かれたそうです。簡単な解釈として、以降、生命は容易に「死ななく」なりました。死という運命、末路を取り除かれた生命が、では最期にどこへ辿りつくのか。「還樹」です。
黄金樹へと、その生を還すのです。
「…正しい死とは、すなわち、黄金樹に還ることなり。待ちなさい。根が貴方を呼ぶ、そのときまで…」
(幻影 : 嵐の麓の地下墓)
「…なんということだ。我らの死地が穢れている。おぞましい。黄金樹に還るを拒み、死んでなお生きるなどと」
(幻影 : 死に触れた地下墓)
- 失地騎士、オレグ
- かつて、嵐の王の双翼として知られた一方 失地騎士となったオレグは、祝福王に見出され 百の裏切り者を狩り、英雄として還樹を賜った
しかしわざわざ「賜る」とあるように、栄誉ある還樹の機会は万人へと無条件に与えられるものではないようで、何らかの功績を上げるか、一定以上の地位にある者にのみ許される様子。いつか役割を終えた彼らは、地下墓で根に絡め取られるなどして樹に還っていくんでしょう。
対照的なのは狭間の各所で見かける彼ら。
はりつけ
罪人なのでしょうか。何をやらかしたのか、どんな目にあったのかも知りませんが、この状態になっても生きてはいるようで、近づくと苦悶の声を聞き取ることができます。「運命の死」を取り除かれている、その効能の具体例と言えるでしょうか。わざわざ磔にしているのは、地面から離すことで、間違っても還樹しないようにする工夫かもしれません(ちなみに最後に現れるマリカと同じサマだったりするので、前振りを最初に行っておこうという仕掛けでもある御様子)。
とは言え、さすがに完全な不死などというものが流通しているわけでもないらしく、忌み赤子などは角を切除されることで「死んでしまう」そう。
- 忌み水子
- 忌み赤子は、その醜い角をすべて切られ 大抵はそのまま死んでしまう
また戦士が闘いの結果バラバラの肉片になるなどすれば、さすがに「死んだ」と言っていいかもしれませんが、その後、壺に回収されることで「強さ」に転嫁されたり、生きた壺としてある種の転生を果たすのは、肉片と化して尚、本質的な「生」を失っていない事を意味するのでしょうか。
かくして人は死なず、ただ樹に還るのみ。これが黄金律の主題、その「半分」です。
生命は本来持っていた機能である死を剥奪され、故に生き続けなければならず、末期ようやく還樹という安寧を得る。「黄金樹から生まれた生命を黄金樹に還す」、このサイクルを強いるための仕組みこそが黄金律であり、この仕組みを成立させるための強大な力、命令文(ルーン)こそがエルデンリングなのです。
しかし重要なのはここから先。なぜなら黄金律の残る主題とは、「還樹させること」ではなく、「還樹させないこと」にあるのだから。
「…ああ、助けてくれ。俺は貴族なんだ。あいつらに、混ざり者どもに喰われたら、俺も永遠に…。ああ、それだけは嫌だ、穢さないでくれ!」
(幻影 : モーンの城)
察するに彼らの言う混ざりものに喰われることで、人は還樹できなくなるのだと思います。
彼らが「殺される」ことではなく「喰われる」ことを異様なまでに忌避しているように見えるのは(そりゃ食い殺されるよりはひと思いに殺してくれって話ではあるのかもしれませんが)、混種が生まれながらにして還樹を許されていない「穢れた」生き物であり、それに取り込まれる事は、即ち黄金律を外れることに他ならない。黄金律原理主義者にとっては、まさしく想像を絶する埒外の悪夢なんでしょう。
死に生きるものたちも同様に「外れた」存在です。地下墓で動く骸骨などが該当しますが、死んだら黄金樹に帰れっつってんのに、彼らは死に、尚も生きている。今回深くは掘り下げませんが、黄金律によって弾かれた彼ら死者の、律への回帰こそが、死に生きるものたちの主題でした。
そしてみんな大好きしろがね人。曰く「黄金樹に祝福されぬ穢れた命」だという彼らも、当然還樹の対象外なのでしょう。わざわざ忌み潰しが派遣され虐殺されていたあたり、存在していることすら耐えられないという、圧倒的な拒絶を感じます。
このようにあの世界には存在を許されていない者たちが多くいて、そういった黄金律から外れた者たちにとっての新たな律となるべく奔走したのが神人ミケラでした。その結果は……。DLC『SHADOW OF THE ERDTREE』、絶賛発売中。
では忌み者の話をしましょう。モーゴットやモーグに代表されるように、忌み角を宿して生まれてしまった者たちですが、黄金律を語る上で、彼らこそが重要になります。
忌み者たちは人の中から生まれてくる。つまり黄金律の内側にある、祝福されるべき存在でありながら、その扱いは暗澹たるものでした。
そも、なぜ彼らのような者たちが生まれてくるのか。その秘密は「坩堝」にあります。みんなそこからやってきた。
- 坩堝の諸相
- それは、黄金樹の原初たる生命の力
- 坩堝の諸相のひとつである。かつて、生命は混じり合っていた
原始、生命の起源は坩堝であったと言います。ありとあらゆる生命はどろどろに混ざり合い、溶け合う形で存在していたのかもしれません。三本指(ハイータ)曰くの「大きなひとつ」だったのでしょう。
その原始生命を吸い上げることで、黄金樹は今ほどに育ちました。
……なんてことは明言されていませんが、代わりに、小黄金樹の周囲には壺がありました。
小黄金樹と壺
全てではないですが、多くの小黄金樹周辺では壺が砕けていました。壺の中身が、人間の血肉であったなら、直感的に、壺の中身を肥料として小黄金樹は育ったのでしょう。つまりこの光景もまた一種の還樹なんです。
壺も坩堝も、生命・血肉が混ざり合ったものと捉えるなら、壺(つぼ)とは即ち小さな坩堝(るつぼ)。「ツボ」と「ルツボ」の言葉遊びです。みんな好きでしょ、言葉遊び。そしてこの言葉遊びが示すのは、小黄金樹がそうであるように、本家の黄金樹もまた、坩堝という大きな壺を栄養にして育ったのだろうということ。
時代のどこかで坩堝へと根を張った黄金樹は、それを吸い上げ、ぐんぐんと大きくなり、やがて数多の豊穣を産み落とします。その後は前述した通り、定められた黄金律に則る形で、坩堝の中で混じり合っていた生命たちは、独立して各々の生を全うし、最期には黄金樹へと回帰する。そしてまた生まれ、還樹し、また生まれる。この繰り返しこそ黄金のサイクルです。
全ての生き物が、実を付けるように産み落とされているのか、或いは種の起源のようなものだけがそうして生まれ、後は普通の生き物と同じく交配し代を重ねているのかは不明です。肝心なのは、生命の大元は坩堝であり、そして黄金樹への帰還を義務づけられているにも関わらず、同じ「生み出された者」の中には帰還を拒絶された者がいるということ。
その一つが忌み者です。
忌み者
忌み者たちとは何か特別な出自や理由を持つのではないのでしょう。角無く生まれる普通の人間に混じる形で、偶発的に生まれてくる、言ってみれば遺伝子欠陥のような扱いなのだと思います。
「生まれてきてしまう」から処分しなければならないわけですが、興味深いのは、身分によってその方法に違いがあること。
- 王家の忌み水子
- 王家の忌み赤子は、角を切られることはない
- その替り、誰にも知られず、地下に捨てられ 永遠に幽閉される
- そしてひっそりと、供養の像が作られる
王家の貴人は忌み者だろうと害し難いのでしょうか。それでも地下に放り投げて見なかったことにしているあたり、苦悩を感じ取れます。或いは身分高き故に還樹する可能性がある王家の忌み者を、間違ってもそうさせないように、幽閉という手段を取っているのか。この部分はあまり煮詰めてません。
とにかく忌み者を還樹させたくない、という必死さだけを受け取って欲しい。忌み者も普通の人間も同じなんです。ただ角の有無しか差異がなく、そして黄金律は、きっとこの忌み角をこそ嫌っている。
そんな大嫌いな忌み角は、しかし黄金律のサイクルの中で生まれてきます。生まれてくる者たちの中から忌み者だけを排除する、この大いなる差別構造こそ黄金律の主題、その後半部分になります。
- 回帰性原理
- 原理主義は、黄金律を二つの力で説明する
- それ即ち回帰と因果であり、回帰とは 万物が不易に収斂しようとする、意味の引力である
- 因果性原理
- 原理主義は、黄金律を二つの力で説明する
- それ即ち回帰と因果であり、因果とは 万物を関係性の連環となす、意味間の引力である
難しいことが書いてあって怖ぇー。深読みしようとするとキリがなさそうなので至極単純な理解を努めてみますと、例えば回帰性原理が「意味のあるものだけを回帰させる」ことであり、因果性原理がその為に因果(運命)を律することであるなら、つまるところ黄金律は「意味あるものだけを回帰(還樹)させたい」わけです。そしてその陰で、「意味のないものは回帰できない」ように仕向けている。
意味のないもの。無意味なもの。狭間の地では、どうもこれを「忌み」と呼んでいます。
「凡愚の意志など、忌み角にも劣る害悪というのに」
(ギデオン・オーフニール)
回帰性原理、および因果性原理のテキスト内における「意味」とは、恐らく「忌み」と掛かっています。ただし今度は坩堝と壺のように相似を示す文脈ではなく、対立する概念として。
「意味」あるものだけが回帰し、「忌み」は徹底して拒絶される。
上の方で書きましたね。黄金律の目的とは、還樹させることではなく、還樹させないことにあると。
関連記事 : 黄金仮説
黄金律とは生死を管理し、黄金樹へ帰還する導線を引くルールと言えます。そのサイクルが延々と繰り返される中で、混種や忌み人たちなどの「穢れたものたち」だけが還樹できないよう定め、黄金律を原理とする者たちもそう振る舞うように努めています。
これにより生命の黄金樹への回帰が繰り返される度に、「穢れ」だけが黄金樹の外へ選り分けられ、吐き捨てられる構造になっている。
元々が一つだったわけですから、恐らく普通に生まれた生命の中にも「忌み」は潜在しているはずなんです。しかしそれは還樹という経路で濾過され、より輝ける生命として「生まれ直す」のでしょう。
そんな気が遠くなるほど健気で地道で賢明な差別の甲斐もあり、その効果はやがて顕れました。黄金樹から「赤み」が抜けていったのです。
- オルドビスの大剣
- 坩堝の騎士の筆頭とされる二名の一方 騎士オルドビスの大剣
- 原初の黄金は、より生命に近く 故に赤みを帯びていたという
原初の黄金は赤みを帯び、しかし今は違うのだそう。なぜかといえば、黄金に「赤み」を与えていたものこそ後世の人々が「穢れ」と呼ぶものだからであり、そして黄金律によって「忌み(穢れ)」が選り分けられることで、少しずつ「赤み」の抜けた黄金へと変じていきます。丁寧な生活。忌みのデトックスです。
黄金律とはひたすらに繰り返される誕生と還樹のサイクルにより「穢れ」を排出する、だから、即ち「濾過システム」なんです。
と、ここまでが過去記事のおさらいになるのですが、黄金樹を一個の生き物として見ると、「忌み」を別の何かに例えることができますよね。大抵の生き物は、生きていく上で、必ず体外へと排出しなければならないもの。老廃物? 惜しい。もっとダイレクトかつエレガントに表現できます。
そう、フロム・ソフトウェアと皆様が愛して止まないもの。
「糞」です。
つまるところ忌み者、忌み角とは黄金樹にとっての糞でした。であれば彼らが地下に棄てられるのも頷けますよね。だって糞は下水に流すものなのだから。
これだから『ELDEN RING』を語る上で糞の存在は欠かせない。例えば以下のテキストをご覧ください。
- 金の排泄物
- 金色の大便は安定性が高い
- 乾かず、その熱と臭いを失わず それはずっと大便である
黄金律とは濾過システム。赤みを帯びた坩堝から黄金のみを選り分ける為の「こし器」でした。さながら川の中の砂利をふるいにかけて、砂金のみを取り出すような。生まれた忌み赤子から角を排除するのは、金の混じった排泄物を更に「濾そう」という意気込みなのかもしれない。何事も地道にやっていくしかないのです。金の排泄物はそれを我々に伝えてくれる。
- 血の混じった排泄物
- 新しい王朝の地で見られる
- 半ば未消化の血肉を含み 得体の知れぬ小さなタマゴが びっしりと植え付けられている
これなんかも示唆的に思えてきます。黄金律は常に外なる神の驚異に晒されていました。忌み者モーグやしろがね人たちは、地下深くにおいて姿なき母に見えたといいます。そして彼らは彼らにとっての救いに身を赤く染め、血の王朝を待望する。
血の混じった排泄物はその暗示です。産み付けられた卵とは、穢れた者たちを苗床に新たなものを孵化させようとする血の王朝の在り方そのものなのでしょう。
そして『SHADOW OF THE ERDTREE』では、黄金律について一つの見解が提示されました。
「最初から、壊れていたのですよ。狂っていたのですよ。マリカが。彼女を導いた指たちが。私は、それをこそ憂います。人々が如何にもがこうとも、その根本が壊れていては…何が、できようはずもありません」
(大司教、ユミル卿)
- 糞壺
- 猛毒は、これを持つ者にも徐々に蓄積する
- 糞の穴はいつだって汚れているものだ
この二つのテキストは同じ意味です。エルデンリングの破砕と共に壊れてしまった黄金律は、しかし最初から破綻していた。幾ら穢れを遠ざけようと、穢れたものを排出する穴が汚れていない筈がないのです。エルデンリングの砕けは、破綻した設計の妥当な末路だったのでしょう。
さすが今や日本を代表するデベロッパー、フロム・ソフトウェアです。黄金律とは? エルデンリングって何だったの? ぼくたちが生まれてきた意味って? そんなプレイヤーの壮大な疑問を「肛門と排泄」を使って見事に描ききってみせました。
余談ですが過去作『ダークソウル』は開発当初、タイトルを「ダークリング」と予定していたそうです。しかし海外ではその言葉が「肛門」を指すスラングとして扱われていることを考慮し、改題したという経緯があるそうですが、しかしタイトルに使用することこそ憚られたものの、結局劇中からダークリングという言葉が撤廃されることはありませんでした。不死人に刻まれる暗い証を、不吉で忌まわしい穴……それこそ肛門に例えられて然るべきものという意図を、どこかで織り込んだのかもしれません。
そしてこれは邪推ですが、「エルデンリング」とはむしろ最初からその意図を織り込んだタイトルだったのではないでしょうか。そのリングは荘厳で大いなるもののようでいて、全く、奇麗なものではないのだぞと。
エルデンリング。おお、エルデンリング。流れる星をすら律し、命の灯火を高らかに輝かし、そして糞をドひり出す。
エルデンリング。エルデの肛門でした。
黄金律は忌みと意味を選り分ける仕組みであり、エルデンリングとはそれを可能にする力であり、肛門である。
この視点を持てたなら、或いは彼についての理解も深まるでしょうか。
- 忌みシリーズ
- 角を切られた忌み子を模した、異形の〇〇
- それは、彼の心象風景の現れであり 姿見に見た、己の真の姿であるという
- 忌み子の心、そうでない姿 こんなにも苦しいことがあるものか
- だったら全て、呪われるがいい
「忌み者の心」という部分の解釈が難しいですが、推測の一つとして、彼は忌み者の間から忌みを持たずに生まれた普通の子供だったのかなと想像しています。あの世界の生命が尋常の交配を行うのか、といった思索上のハードルはあるものの、もしも普通の人間に子を成すことが可能であるなら、それは忌み者にも可能だったんじゃないかと思うのです。
そして普通の人間から忌み者が生まれるなら、忌み者から忌みの無い子供が生まれることがあってもいい。
別の解釈をするなら、忌み角を持たない生命も潜在的に「忌み」を含有するのであれば、彼は普通に生まれながら忌み者特有の精神的形質といったものを顕してしまったのかもしれない、こっちの解釈でも良いでしょう。個人的には外形で差別されていただけで内面的な作りは忌み者も忌み角を持たない人間もそう違いは無かったんじゃないかと考えているのですが、ともかく、心だけは忌み者として在ったという彼は、普通の社会にも忌み者たちの社会にも、きっと溶け込めなかった。
そんな境遇と、黄金律により形作られる徹底した差別構造が、やがて彼を「忌まわしき糞喰い」へと変えていった。
糞喰いは忌み角を人間の死体に埋め込んで回るといった行いを繰り返していたようです。差別する者とされる者が、元々一つであったことを思い出させるように。
そして死体は穢れ、呪いが育つことになります。この「穢れ」とは、上述したモーンの城の幻影が陥っていた、「混種に喰われる」ことと本質的には同じでしょう。穢れたものの一切を黄金律は認めず、故に呪われた死は黄金樹に帰還できない。
律が生命から忌みを選り分け拒絶し続けてきたことに対し、糞喰いは地道にやり返し続けてきたわけです。
「糞喰い」という名前については如何でしょうか。文字通りうんちイーターだった可能性はありますが、それよりもその名は自らの末路の暗示だったのだと考えています。
糞喰いは死体を苗床に呪いを育て、それらを収集していました。同じところからやってきた癖に、一方を黄金と囃し立て、一方を忌み(糞)と吐き捨てた。その構造へと反抗すべく、彼は今日も明日も黄金に糞を擦り付ける。結果として呪いは育ち、そして多くの呪いを、彼は最期に「喰らった」のです。
- 忌み呪いの修復ルーン
- 糞喰いが宿した忌まわしいルーン
- エルデの王が、壊れかけのエルデンリングを掲げる時 その修復に使用できる
- それは、子も、孫も、その先も 永遠に続く忌み呪いの病巣である
- 律のすべてが穢れてしまえば すべての穢れは、穢れでなくなる
- すべての呪いに祝福あれ
そうして終に糞喰いは一つのルーンを宿します。修復ルーンとは壊れたエルデンリングに当て嵌めることで、修復に乗じ律そのものを書き換えてしまう重大なルーンです。
忌み呪いのそれは、黄金律の仕組みをそのままに、しかしその祝福を絶望へと塗り替えるものでした。糞喰いの名は咆哮です。彼はずっと中指を立て続けていた。「糞喰らえ」と叫びながら。
『ELDEN RING』は壊れかけた律の行く末を巡る物語でした。壊れたまま騙し騙し使うか、直して使うか、そうでなければ新品を迎え入れるか、或いは全て壊して御破算にするか。
黄金律はこの男が完成させた。金仮面卿の完全律は「直して使う」の最たるもの。それは神の気まぐれによって唐突に自壊することの無くなった、意志の曖昧さが介在する余地のない、まさしく完全な律と言えます。しかし黄金律そのものを否定するものではなく、むしろ既存の差別構造を盤石にすることでしょう。「律の時代」の始まりです。
真の死を知らしめたい。死王子のそれは死の回帰でした。運命の死を取り除くことから始まった黄金律が、次代では死をも律の対象とします。ちょっと想像し難い部分もあるのですが、恐らく死後再び何度でも起き上がる、「死に生きる者たち」の在り方が次代の生命のデフォルトになるのかもしれません。しかし言ってしまうと、排斥される側だった陣営の逆転劇というだけであり、元より律の対象とならない穢れたものたち、即ち混種やしろがね人と、死に生きる者たちが相容れるとも思えません。そして何より、死は調律すべしと捉えていた黄金律原理主義的価値観の持ち主たちは迫害と根絶の対象となることが予想されます。
故に、そもそも黄金律そのものを撤廃すべきとした者たちがいました。
律の本場は今や空にある。常に人々の視界に聳える黄金ではなく、それは月のように遠く、それでいて寄り添うものであるべきだとしたラニの律。以降、神秘は人の手を離れ、人は神を不要とする人自身の歴史を紡いでいくのでしょうか。
差別のない世界を望んだから全てを棄てたのだ。極大の愛と誘惑により、万物平等の世界を目指したミケラの律。個の意志に統一されるなど真っ平だといった意見もあるでしょうが、大丈夫。きっとそんな雑念もすぐに消えてなくなります。
バーリ・トゥード(なんでもあり)ならこいつが怖い。狂い火を以て全てを溶かす、「そもそも生まれて来るな」の三本指。存在しないものに上も下もありません。
各陣営の思惑が交差する中、もしかすればどの思想も極端なものに思え受け入れがたく感じる人も多いでしょう。今の世界を維持したまま、哀しい差別だけを無くしたい。そう願う者たちにとって、糞喰いの掲げる律は画期的なものでした。
「アイディアとは複数の問題を解決する」とはよく言ったもの。逆転の発想です。生きとし生けるものたち全てに糞を塗りたくってしまえば良い。
黄金律とは回帰性・因果性、二つの原理によって「意味」と「忌み」を分離する仕組みでした。修復ルーンとは、特に忌み呪いのそれは恐らくこの根本の機構を弄るものです。ならばこれまでとは逆に、忌まわしきもの、穢れと称されていたものを、意味あるものと不可分にしてしまえばいい。意味を呪うのです。それこそが忌み呪い。かつて黄金がそうしたように、いえ、そうした以上に、世界を絶望によって祝福する。
褪せ人は、エルデの王となった
霧の彼方、我らの故郷、狭間の地で その治世は、呼ばれるだろう
忌むべき呪い、穢れ…絶望の祝福の名で
(絶望の祝福エンド)
総てを糞色に染め上げるのです。生まれや外形の違いを互いに指差し合うのが世の常だとしても、全員が顔に糞を引っ付けていれば、そんな世界で差別など馬鹿らしい。なんか偉そうですけど、でもあなた、顔にうんこ付いてますよね?
この後、みんなが忌み者然と角を生やす……といった、生ぬるい世界ではないと、個人的には想像しています。みんなが角を生やした後の世界でも、きっと差別は生まれる。人は常に差別をする理由を探している。だから、たぶんこの忌み呪いの前後で外形的なものは何も変わらないと思います。ただ決定的な差異として、総ての生き物が、ただ「穢れてしまった」という、言い知れぬ実感を得るのではないでしょうか。それこそが絶望によって祝福されるということ。皆がただ絶望し、然り、差異などどうでもよくなる。
律の撤廃などと大袈裟なこともなく、差別者と被差別者の虚しい逆転でもなく、ましてや三本指のように生まれてくることそのものを否定したりもしない。生まれてきて良し。生きていて良し。ただし揺り篭は便槽だ。
そうして全ての生命が等しく糞に塗れてしまえば、そこに差異は消失する。穢れは穢れでなくなる。森羅万象の価値を毀損せよ。平等という観点から、糞喰いが掲げた忌み呪いの治世は、全てに等しく愛を注ぐミケラの治世に比類することでしょう。
糞か愛か。或いは、愛とは糞なのか。
落ちた糞が伝えている。
というわけで、糞でした。
糞喰いについて軽く書くだけのつもりで始めましたが、「黄金律とは」という主題と切り離せないために、少し量が膨らんでしまいました。筆者の能力不足と言えばその通りですが、こうして大便ひとつを語るにも、黄金全てを語ることになる。『ELDEN RING』ってそうだから。
さてここからは余談なので読み飛ばして頂く前提でブツクサ言います。次に何を書くか。まだ決めてないです。幾つか考えていることの一つがラダゴンについてですが、まさか DLC でああまでヒントを頂けないとは思わなんだ。
黄金律の目的が原始の黄金、坩堝から「赤み」を抜くことにある……という仮説に則るとして、ラダゴンの有り様はまさしくその縮図だったのかなとは思っています。未だ神ではない(なかった)ラダゴンの、その未完成の象徴として赤髪があったのなら、それは未だ不純物を多く含んだ黄金の示唆でもあったのかなと。髪は神。黄金も、ラダゴンも、自身から「赤み」を抜くことを至上の命題としていたのかもしれない。だから、最後に我々の前に立ちふさがった敵は「黄金律、ラダゴン」でした。
振り返って、神であるマリカはバカスカと子供を作りまくっていたわけですが、本当に子供のつもりだったのでしょうか。黄金から不純物をデトックスするために沢山の糞をしたら、その中の上出来な幾つかが高尚な意志を持ち始めただけなのではないか。人と亜人の違いなど、糞としての出来不出来でしかないのかもしれない。そしてそのうち、「赤み」を多く含んだ糞に、メスメルだのラダーンだのと名付けただけなのかもしれません。
というかそもそも問題、どこからどこまでがマリカの意志だったのか。メスメルが最後に呪った、或いは呪い続けていた母とは、本当にマリカだったのか。
影の地で仄めかされたマリカの背景は、本作が彼女の壮大な復讐劇であったことを推測させるものの、個人的にはこの辺りから「本当にそうか」と疑って掛かりたいところ。ラダゴンとは、いつからマリカだったのか。
この辺りをグルグル考えています。いずれ考えも煮詰まり、もしくは全然別の解答が浮かんでくるでしょう。明けない夜は無い。出ない糞も無い。便意を感じた頃にまたお会いできることを願って、さようなら。