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回生・竜咳・人間性

はじめに

皆さん『隻狼』やってますか? 戦国に忍んでますか? スキルコンプのトロフィーだけ残して「もうちょっとポイント緩くしてくれえええ」とか言ってますか? 今回は『SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE | 隻狼』の記事を書きます。ただその前に但し書きなんですが……ほら、世間では「『隻狼』が別の作品と繋がってた!」みたいな論調じゃないですか。でもそういう「世界観の繋がり」って人によっては受け入れられないものだったりするんですよね。明かされない事で成り立っている事が壊れ、独特の雰囲気・空気感が薄らいでしまう。好みはそれぞれと言っても、やはり自分と異なる感性こそ尊重していきたいものです。

という訳で今回は『隻狼』と『ダークソウル』の話をしまーす。

令和前に『隻狼』の記事を一本でも更新したいなと思いまして、でも単独記事がちょっと尺を取りそうなので無理かなって。なので短く済みそうなネタとしてこういう変化球をチョイスした次第。「その二つは繋がってないよ」という至極まっとうなご意見をお持ちな方にとっても、暇つぶし程度になってくれるとありがたいです。

では……参る!

回生

『隻狼』の根幹である「回生」システム。要するに「死んでも生き返る」ことができます。「ソウルシリーズ」なんかもそうだったじゃないかという話ですがちょっと違う。「その場」で生き返る事が出来るんですね。ロードを挟んでの「やり直し」ではないんです。敵がこちらの死に油断する。その背に刃を突き立てられる。「死」を戦術に組み込むことができる。これまでと同じようで明確に異なるのはその点でしょう。

死 回生

シト回生

しかし回生の力を使い切り、尚も死ぬとどうなるか。これまでどおり、間を置いての「やり直し」となります。そして、ここからが『隻狼』。薬師エマは言いました。

「貴方は、たとえ回生の力が尽きていたとしても…いずれ、蘇っています。代わりの力を…、どこかから、奪っているのでしょう」

蘇りは「回生の力(ゲージ)」を消費して行うので、その力が尽きれば蘇れないと思いきや、そんな事はないと。しかし通常回生が任意で行えるのに対し、「死」後の蘇りは全くの自動。では尽きたはずの「力」をどこから充当しているのか。

気付けば響く咳の音。縁を結んだ者が病に罹っている。何と原因は狼の蘇り。彼は周囲の人間から「力」を奪う事で蘇っていたというのです。

「竜胤は、回生の力を授けることができる。しかし、それは常ならぬ力。繰り返せば、やがて淀みが溢れ、関わった者に、病として降りかかる。その病を、竜咳と呼ぶ…と」

エマの調べでは竜咳に罹った者の血は淀んでいるのだといいます。なぜ淀む?

「竜咳になった者は…人が、人として、生きるための、当たり前の力を、奪われています。ゆえに、血が淀むのでしょう」

狼は鬼仏で休息する他、殺害した対象から回生の力を充当しているようです。それが叶わぬ状況下では周囲の NPC からそれを奪っているのだと。つまり回生の動力とは、エマの言う「人が人として生きるための当たり前の力」なのだと考えて良さそうです。敵か味方かの区別なく、狼が望む望まないに関わらず、回生の力は同じところから来ているのでした。

放っておけばやがて死に至るという竜咳。治す術は、ありました。奪ったものを、返せばいい。

快復の御守り
これを持って、鬼人気に「竜胤の雫」を備え祈れば、生の力を、それを奪った者たちに返せる
「快復の御守り」があれば この雫を鬼仏に供えることで、生の力を、それを奪った者たちに返せる
そして、竜咳に罹った者たちを快復させるのだ
御守りの中には、竜咳患者の血から エマが精製した血石が納められている
この血石は、治すべき者たちを定める道標だ
竜胤の雫
竜胤の御子から、稀に雫れ落ちるもの
使用すると、回生の力をわずかに増やす
「快復の御守り」があれば この雫を鬼仏に供えることで、生の力を、それを奪った者たちに返せる
そうして、竜咳に罹った全ての者を快復させる
止まぬ咳が、止まるのだ

回生の力が充当される「竜胤の雫」。これを「快復の御守り」と共に使用することで、奪った「生」を返せるという理屈。エマ殿、超有能であります。という事でプレイヤーは死を重ねながら戦国へ忍び、時に周囲の竜咳を治療しながら先へと進んでいく事になります。これが本作の、生と死に纏わる基本構造でした。

不死

神話の時代、「不死」と呼ばれる者達がいました。別名「人間」です。どうも人の祖が「暗い魂」を手にしてしまって以来、「人類」には例外なく不死性が備わったようです。

輪の騎士の〇〇
古い人の武器は、深淵によって鍛えられ 僅かだが生を帯びる

深淵、並びに闇はそれ自体が「生」として機能するもの。人間性を砕くことで HP が回復するのもここからでしょうか。人が持つ生命力の源には闇の力も関与していた事を意味します。人が死なないのはこの為……と言いたいところですが、もうちょっと複雑。実は「不死」という呼称には嘘があります。人は「死なない」訳ではないんです。

そもそも「死」とは何かと言うと、かつて人の祖が見出した「闇」と同じ、大いなる力の一つです。死とはそれ自体が独立した力であり、しかし生あるものは、生者たる故にそれを糧と出来ないのでしょう。逆にスケルトンとは完全なる「死者」であり、「生」ではなく「死」を動力として動いている。「殺す(生を奪う)」という方法では「死者」を害せないからこそ、「死」を操る屍術師(ネクロマンサー)を倒すか、或いは神聖武器を用いて「死」で動く「仕組み」そのものを断ってやらねば倒せなかったんですね。

では人が持つ不死性は如何なる理屈で成り立っているのか。

暗い穴
不死人の証にも似た暗い穴。
その暗い穴に底は無く、人間性の闇が徐々に漏れだし引き換えに呪いが溜まっていく。

流出する人間性と引き換えに蓄積していく「呪い」とは何か。「死」です。人は「死なない」のではなく、この暗い穴がある為に「死」を蓄積できる、つまり何度も死ねるんです。

亡者

亡者状態

死ぬと人は亡者になります。生命力を失っているから、血肉を失い骨と皮だけの姿になっているのではありません。「死(呪い)」が蓄積されていった結果、死者へと近づいているんですね。

しかしだからと言って「死」はおいそれと体に溜めていいものではありません。死に過ぎ、呪いが過ぎれば亡者は理性を失い人を失います。死を重ねて尚も正気を保てるのは、それこそ「英雄」と呼ばれるべき、選ばれし不死だけなのでしょう。

ということで劇中の設定ではどうか知りませんが、基本的にゲーム進行上亡者でいても良い事はあんま無いので肉体を取り戻したいと思います。なじみ深いのはやはりこれでしょう。「人間性を捧げる」のです。

亡者からの復活

「呪い」が排出されている

お判りでしょうか。篝火によって亡者から復活すると、不死の肉体からピンク色の何かが排出されています。これが「呪い」、つまり「死」です。思い返してみれば「死」及び「呪い」に纏わるエフェクトはこの桃色で表現されているように思います。思いつく限りでは以下の 2 つ。

爆発頭 奴隷騎士

「呪い」は汚ぇピンク色をしている

肝心のニトが纏うオーラのようなものが桃色でないので、この色は「死」そのものというよりは、亡者、或いは人間であった者の中で蓄積した「死」が「呪い」へと変質したものと捉えた方が飲み込みやすいでしょうか。

ともかく亡者は「死」を排出することで「生」を回復しているようなのですが、要するに単純な「交換作業」なんです。「暗い穴」のテキストを見る限り、「人間性と引き換えに呪いが溜まっていく」のなら、逆に何らかの方法で「死(呪い)と引き換えに生(人間性)を取り戻す」ことが可能という理屈なのでしょう。

という事でプレイヤーは死を重ねながら火を求め、時に溜まった死を生と交換しながら先へと進んでいく事になります。これが人が不死であった時代の、生と死に纏わる基本構造でした。

淀み

死してなお桜色

例え世界から火が消えて、古い神様がいなくなっても、世界そのものは変わらない。一度生まれた「仕組み」が別の何かに変わる事はないのだと思います。

しかし人は、なぜかは知りませんが、かつて持っていた不死性を失ってしまったようです。つまり「死を重ねる」事が出来なくなってしまった。だから、死ねば当たり前に動かなくなる。

奥の歯
だが、覚えているだろうか
普通は、一度死んだらおしまいだ

しかし御子の忍びは竜胤によって回生の力を得ました。それはかつて人が持つ「死を重ねる」力とは全く別のものなのかもしれません。しかしながら、もしも世界の「生と死」の法則が変わっておらず、この二つが何らかの手段によって未だ「交換可能」なのだとするならば。

死の排出 回生

「呪い」は桜の色をしている

やはり「回生」もまた「死」を吐き出すことで「生」を取り戻していたんじゃないでしょうか。回生時に散る桜と思わしき花びら、これは「桜」ではなく、遠い昔に「呪い」と呼ばれていたものなのかもしれません。

『隻狼』の重要キーワードの一つが「桜」であることは間違いないでしょう。実際に真相に近づくにつれて美しい桜が咲き乱れていた。しかし、では「なぜ『桜』だったのか」と言えば、仙郷に根付いたという神なる竜が人々の「生」を吸い上げ、花という形で自らの「死」を吐き出していた。そんな示唆だったんじゃないでしょうか。

源の宮 桜竜

桜の樹の下には

竜胤と回生とは、ひたすらにその縮図であったのだと。

桜と死は、良く似合う。

人が人として生きるための当たり前の力

さて、狼は回生の力により己の内に溜まった「死」を吐き出すことが出来ます。そうして交換された「生」で自らを満たす訳ですが、回生の力無き後もその仕組みは働き、代わりに周囲の人間から奪い集め、不死の契約者を強制的に復活せしめる。そんな話でした。という事で改めてエマの言葉を引用します。

「竜咳になった者は…人が、人として、生きるための、当たり前の力を、奪われています。ゆえに、血が淀むのでしょう」

「人が人として生きるための当たり前の力」……人ならば当然持つ、人の本質的な力。そう、人間性です。それが失われ、或いは狼が排出した「死」を吸入する羽目にさえなっているのかもしれない。亡者が「生(人間性)」の代わりに「死」で身体を満たし死者に近づいたのと同源の理屈で、しかし今や亡者にすら成れなくなった人を蝕むものが、竜咳という病なのかもしれません。

だから、きっと鬼仏で竜咳を回復させる行為は、かつて人が篝火で亡者から復活していたのと近似の業なんです。例え世界から火が消えて、古い神様がいなくなっても、世界そのものは変わらない。一度生まれた「仕組み」を利用して、人々はこれからも強かに生きていく。そうするしかないのだと思います。

蛇足 : コエテハナラヌ…ホドホド…ホドホド…

ところで竜咳の原因となる「血の淀み」。「人が人として生きるための当たり前の力(人間性)」が人から抜け出てしまった事で、竜咳患者の血は淀んでいるのだそうです。では、例えばこの「人が人として生きるための当たり前の力」が「不足」という形ではなく、人の身に余る形で注ぎ込まれたら、一体何が起こるのでしょう。

抜け出ることで血が淀むなら、血を介してその力を与える事が出来る理屈です。与えられるなら、奪う事だって出来るでしょう。『隻狼』には人と思わしき、しかし到底、人とは思えないような者たちが登場しました。彼らの中にさえ「人が人として生きるための当たり前の力」が未だ存在するなら、その血を使えば人は人を超えることだって出来るのかもしれない。「不足」ではなく「過剰」という形でも、やはり血は、人は淀むのでしょうか。

世界のどこかには、そんな血による進化に魅せられた者たちがいたのかもしれないのですが……それはまた別の話。

輸血

我ら血によって――

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