ACID BAKERY

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「蟲」の咄をさせ賜え

はじめに

おはようございます。

何ていうかですね、『隻狼』発売前は心のどこかでうっすら他の作品と繋がっていて欲しかったし、根拠が薄かろうともか細い糸を繋ぎ合わせて遊べたらいいなと思っていたんですね。

漁村の先触れ 水生の先触れ

漁村の先触れ、水生の先触れ

意外とガッツリ来たなと

という訳で『隻狼』と『Bloodborne』は世界観を共有しているという前提(明言されていないので勿論個人的な空想として)で幾つか記事を書こうと筆を取り申した。これは『隻狼』についての記事ではありますが、同時に『隻狼』内の描写は『Bloodborne』の答え合わせにもなると心得たので、両作品の記事としてお読みください。

虫憑きの獣たち

首の無いあいつら

色々あると思いますが、兎にも角にもこいつらな訳です。

蟲憑き 獣血の主

首無しの獣、ともに虫憑き

生命の要たる頭部を失い、なおも活動を続けるその内部には、ともにおぞましい「虫」が入り込んでいました。やっぱり全ての原因は寄生虫だった! ……と受け取るのは簡単なことなんですが、ちょっと深く掘ってみると違和感を覚える描写でもあります。そしてよく考えてみてちょっとおかしいというのは、素晴らしく重要なヒントになる。じゃあ今回もやっていきましょう。

「虫 / 蟲」が獣に招くこと

では全て寄生虫が悪いとした上で、『Bloodborne』の血の医療、その中にも虫が蠢いていたのだと仮定しましょう。「虫」入りの血は何を招くのか。

豚 鴉 鼠

栄養満点なお肉を食べてすくすくと育ちました。

医療教会は「聖血」とやらを元手に血の医療を開拓し、それをヤーナムの人々に振る舞っていました。そんな市民を生きたまま、或いは遺体を食べた動物さんたちは元気に大きく育つようなのですが、葦名だって負けていません。

鶏 魚 牛

美味しいお水を飲んですくすくと育ちました。

牛は火牛を貼りたかったんですがスクショどっかいっちゃったので宮産でご勘弁。さてヤーナムのそれらと同じく葦名の動物たちも大きい。最も葦名の外側を知らないのでこの時代の動物はでかいんだと言われても反論できないのですが、取り合えずは葦名限定とさせてください。じゃあ原因は何かと言うと、「水が良い」からです。

水が良いのか、葦名の柿は滋養がある

つまり動物が肥大化する原因となるものが、共通して「血」と「水」に混入している考えれば分かりやすい。ならばそれは寄生虫なのだ……と納得しても良さそうなのですが、ここでちょっと疑問が浮かびます。寄生虫の混入した水によって動物が大きくなる。じゃあそれら肥大化した動物たちも「蟲憑き」なのか。

戦いの記憶・獅子猿
身中蟲の宿るは、死なずの印といわれるが…

「蟲」は宿主を不死とする。しかし鶏や牛たちは死にました。劇中、はっきりと体内より蟲を湧かせる者達が「不死斬り」によってのみ殺害できる点をみても、少なくとも肉体が肥大化しただけの動物たちは不死とは呼べない。そしてもう一つ。葦名の底で戦う事になる獅子猿、そのバトルフィールドを見下ろせる場所で朽ち果てた白骨死体。これは獅子猿のかつての「つがい」なんじゃないかと思うのですが……。

獅子猿のつがい?

つがいの遺体

戦いの残滓・首無し獅子猿
かつて獅子猿は、つがいで古ねぐらに暮らしていた
だが己のみに蟲が憑き、片割れは先に死んだ

蟲が憑いてない片割れもでかいんですよ。何だったら首無し獅子猿戦に参戦してくる二体目の猿も大きい。繰り返しになりますが、「葦名の猿はでかいんだ」と言われればそれまでです。しかし大きくない猿もいる辺り、やはりここまで肥大化するというのは特別な事であり、しかし「不死」には至っていないようです。だったら「肥大化」と「不死(蟲憑き)」は原因が異なると見たほうが飲み込みやすいんじゃないでしょうか。

「ある種の物質」

そんな訳でですね、以前こちらの記事で書かせて頂いた事柄としまして、特別な血の中に含まれるのは寄生虫ではないというのがあります。ぼやかす意味も無いのではっきりいってしまうと、その正体は遺志だと。

『Bloodborne』において、鎮静剤は人血をベースにしていました。それが鎮静作用を持つというのは、元よりこの世界の血液には遺志(魂、活力)が宿り、それを補填することで気の狂いが鎮められる訳です。で、普通の人血にそのような効能があるなら、特別な存在の血液には特別な効能が期待できる。血の医療とはその考えから成立しているものなんですね。

そして特別な「遺志(魂)」には特別な変質作用があります。

血石の欠片
死血に生じる固形物の欠片
血中に溶けたある種の成分が、死後凝固したもので 結晶化していないものは血石と呼ばれる
死血花の芽生え
棄てられた場所で、死血に芽吹くという青白い植物

「欠片」のテキストにある「ある種の成分」こそ遺志であり、つまり「遺志は石」になるのであり、時に花すら芽吹かせると。

要するにこの「遺志」が持つ変質・変態の中に「虫」も含まれるのではないかと言いたいのです。虫が花や石に変わるというよりは、虫すらも遺志が成る変質の一形態だったのではないかと。

この「成分」が、元々特別な力があったらしい葦名の水に溶けたというのなら、それによって「滋養のある柿」は育ったのでしょう。寄生虫が水を介して柿に宿ったとするよりはイメージがしやすいのではないかと思います。

さて「血」と「水」、そこに含有する「ある種の成分」によって動物の肥大化は起きました。これは血・水に含まれる「成分」が持つ生命力のようなものの効能でしょうか。ヤーナムの鴉や豚がそうであるように、葦名の鶏も牛も同じです。しかしそうした上でその生命力がそのまま「不死」へと直結しないというのであれば、逆を言えば体内の「成分」が「虫」に変質する理由を探れば、それはそのまま「蟲憑き」の正体に触れることに繋がるのではないか、という事を本項では述べたい。

しかし前提として、そもそも『Bloodborne』の寄生虫と『隻狼』の寄生虫はその種類からして異なります。それは血と水、その媒介が異なる故の差異なのか、「成分」の大元である聖体の差異の顕れなのか……何にせよサンプルが少なすぎる。ならば取り合えずは分かっていることを整理し、両者の「虫」は異種なれどその根本的性質は同じなのだと仮定した上で、何とか着地点を探れればいいなと思っています。

怖ろしい蟲

さて獣化者には「ノコギリ」及び「火」という弱点があります。人よりも強靭になったはずの獣たちが、「獣だから」という理由で火などに弱くなるのは理屈に合いません。これは獣そのものに対する特効というよりは、「ノコギリによる血の排出」「火による焼却」と、つまるところ獣に潜む「虫」に対する特攻だった訳です。即ち獣化者を活動させる「核」となるのは、やはり虫だったと示唆されていたんですね。そんな訳で『隻狼』よりも『Bloodborne』の方が、少なくとも、こと「虫」については多くの事を語ってくれていると期待する訳ですが、そうした上で仮に体内で「成分(遺志)」が虫に変わることで獣化が引き起こされているのなら、逆を言えば獣化の原因がそのまま「虫(蟲)」の秘密に触れる事になりそうではないですか。

そして獣化の理由については以前書きました。簡単に言ってしまうと、「信仰」こそ獣化のトリガーだと考えています。繰り返しになってしまうので詳しくは該当記事を読んで頂きたいのですが、劇中の獣ボスが殆ど聖職者であること、そして NPC ギルバートが獣化する寸前、最後の台詞で「神へ祈っている」ことなどを根拠としました。人間だけが神を持つ。故に祈りが獣を生む。だからこそ強い祈りを知る「聖職者こそがもっとも恐ろしい獣になる」のではないかと。

この仮説をベースとするなら、つまり「祈りや願いが『成分』を虫(蟲)に変えている」と言い換えられます。

そう。

聖職者の虫

聖職者こそ

聖職者の虫 2

怖ろしい

聖職者の虫 3

蟲を生む

「祈り」に感応し体内の「成分」が「虫」になる。だから仙峯寺は「蟲憑き」の産地足りえていたのです。

また仙峯寺の坊主が百足に限らずコオロギなども吐き出していた辺り、「様々な蟲に憑かれた」というよりは「体内でそれらが湧いた」とする方がよりイメージしやすいんじゃないかと思います。対してヤーナムで確認された虫が蛆ばかりであったのは、やはり「成分」の差異なのか、或いは医療教会と仙峯寺の教義・宗派による差異なのかは不明ですが、しかし祈りによって「成分」が蟲に変質するという根本的な性質は共通していそうです。

ところで破戒僧、その真の名は八尾比丘尼。出典をどこまで採用しているかは不明ですが、彼女もまた聖職者でした。

破戒僧の虫 破戒僧の虫 2

あまえないでよっ!!

家畜に神はいない

獣化及び、体内の「成分」を蟲に変質させる為には「祈り」が不可欠でした。ただ気をつけたいのは、必ずしも聖職である必要はないということ、悲痛な、恐らくは絶望に瀕した差異の「祈り」や「願い」が変化をもたらすのであって、故にこそ祈り方を知る聖職は蟲を育てるのも旨いというだけの話。そんな訳でヤーナム、葦名に関わらず「動物」に蟲が憑かないのは、彼らが知能・人間性を持たないが故、祈る神もまた持ちえないからなのでした。

……と、結論を出せてしまえば簡単なところに「蟲憑きの動物」である獅子猿なんてものをぶち込んでくる辺り、本当にフロム・ソフトウェアという方々は一筋縄じゃいかねえなと思うわけですよ。

この謎に対する仮説は 2 つ。

1、獅子猿に喰われた「川蝉」が蟲憑きだった

蟲憑きを喰ったから、特例的に蟲憑きとなった。「喰われることで宿主を変える」というのは、寄生虫界では常識。また獅子猿に突き刺さった刀剣が川蝉のものだとすると、彼女はあれを操ることができるだけの体躯を有していた訳です。必然連想するのが破戒僧の巨躯。蟲憑きだった川蝉も破戒僧のように巨躯だったなんていう所まで想像が膨らんで楽しい。「川蝉」「泣き虫」と、彼女を語る言葉に「虫」が目立つのは、彼女が寄生されていた事の示唆……なのかもしれません。

ちなみに言っていなかったことが一つあって、実はヤーナムに生息する鴉たちに対してもノコギリや火は有効だったりします。祈りを知る者の中にしか虫が湧かないなら、動物であるそれらに同様の弱点が備わるのは論理として破綻している事になりますが、しかし寄生虫が「血液感染(Bloodborne)」するのであれば話は別でしょう。そして血の医療の「成分」は、「虫」へと姿を変えようとも、宿ったものを肥大化させる力を持つ証明なんじゃないかとも思います。

以上の説、筋が通っているとは思うのですが、個人的に推したい説は次のものなんですね。

古くからある進化論として、猿が人間に成ったとされるものがあります。最新の学説がどうかは分かりませんが、本作でこの論説が採用されているのだとして、つまりそれこそが劇中唯一蟲に憑かれた動物に「猿」が選ばれた理由であり、また猿という動物が多く集う場所が「菩薩谷」であった理由なんじゃないかと思うのです。つまりこういうこと。

2、人間に近い故、猿は信仰を理解するに至った

思えば劇中の猿たちは人の如く装備を纏い、銃や刀を用いるなど、嫌に知能が高い。猿を操っていた何者かがいたならともかく、猿たちは独学でそれらの道具を我が物としていたようです。果てに獅子猿は自らの伴侶に花を送ろうと育みさえしていました。非常に高度な文化的行動でしょう。また場所が変若谷の底というのも大きいと思います。変若水を摂取し続けた「人に近しい動物」が、いつしか見上げた先にそびえる菩薩に対し畏怖と信仰を抱いた。

『Bloodborne』では『幼年期の終わり』や『星を継ぐ者』なんかを引用していましたが、『隻狼』では『2001 年宇宙の旅』でしょうか。菩薩というモノリスと出会った猿たち。中でも飛びぬけて高い知能を持った獅子猿は、やがて「神」をも獲得した。そうして彼は蟲憑きと成ったのではないでしょうか。メタな読みですが、菩薩谷というロケーションと、猿というチョイスに意味を見出せるので、なかなか面白いと思います。

また、 1 と 2 の仮説は特に矛盾しないんですね。なので信仰を理解しかけた猿たちの中で、獅子猿という個体が感染者「川蝉」を食べ、宿主として適応してみせたという事なら一本に繋がるでしょう。

祈りや願いが蟲を生む。であれば、それらを理解できさえすれば動物だって蟲憑きとなれる。こんな感じで如何でしょうか。

(追記)ところで「獅子猿」の名の由来ですが、「獅子のように獰猛なモンキー」でしょうか。シンプルで分かりやすいと思うのですが、もう一つ思いつきました。「獅子身中の虫」ではないかと。

獅子身中の虫
《獅子の体内に寄生して、ついには獅子を死に至らせる虫の意》
  1. 仏徒でありながら、仏法に害をなす者。
  2. 組織などの内部にいながら害をなす者や、恩をあだで返す者。

獅子猿の戦いの記憶に「身中蟲の宿るは、死なずの印」とあるのが怪しい。最もこの言葉、元は宿主を死に至らしめてしまう虫が語源のようですが、『隻狼』においては不死を意味するのが面白い。また含意として「仏徒でありながら、仏法に害をなす者」とある辺り、これは菩薩谷で猿が知性(信仰)を獲得した事を示唆するものであり、同時に仙峯寺の在り方を揶揄するものでもあったんじゃないかと思うんですね。やはり信仰に強く反応する「蟲」は、しかしそれを宿した時点で仏敵と成り得る毒虫であったのだと。

脳の麻痺した大男たち

さて「獣化」が人だけにもたらされるものであるのは、人のみが持つ人間性や知性が深く関わるからでしょう。持てるものだけが、それを喪う事を許されるのです。であれば、それらを持たない人間は「成分」によってどう変化するのか。

獣狩りの下男 教会の大男

ヤーナムの大男たち

人のまま肥大化します。彼らは教会が言うところのいわゆる「脳の麻痺した大男たち」に属すると思うのですが、平常の知性を持たないが故に、獣化せず、「動物のように」肥大化する訳です。

一方、葦名にも同様の特徴を持った者達がいます。

小太郎 長手の百足

葦名の大男たち

たまたま見かけたので小太郎の画像を使いましたが、葦名には「太郎兵」と呼ばれる巨漢が跋扈しています。後者の長手の百足も同じなんじゃないかと思うのですが、言ってしまうと、要するに彼らは「脳が麻痺した」、つまり知的障碍者である訳です。

太郎柿
葦名の太郎兵は、柿をたくさん食べて育つ

脳が麻痺した者が「成分」を取り込むことでこのような変化が起きるのですね。ちなみになんですが、狩人の悪夢には「鐘持ち」と呼ばれる大男もいました。鐘の鳴る大斧を振り回す触手野郎です。そして葦名においては、こちらにはそのまま鐘を振り回す太郎兵が配置されています。

ヤーナムの鐘持ち 葦名の鐘持ち

ヤーナムの鐘持ち、葦名の鐘持ち

こうして類似の装備を持たせたのは、両者が「脳の麻痺した男」として共通する示唆なのでしょう。

葦名の意志

赤い月は出ているか

謎は残ります。虫(蟲)が信仰によって生まれるのだとして、なぜ葦名では獣化者が生まれないのか

仮説を立てるだけならば簡単です。前述したように「成分」を含有する「血」と「水」という媒質の違いなのだと。ウィレーム先生は血の医療を忌避していました。医療の先に獣の病があることを理解していたからでしょう。また推測でしかありませんが、変若水のように「成分」を含んだ「血ではない溶質」の存在を把握していなかったとは思えないのです。なので「血」によって「成分」を摂取した先にのみ獣の病があると仮定してしまえば、一見この謎は解決します。

捨て牢にて

壺から溢れる蛆。死血から沸いているのだとすれば、ヤーナムの如き獣の病蔓延も時間の問題ということなのだろうか。

しかしですね、そんなに簡単なのかとも思います。血が水に置き換わっただけで「成分」の摂取はノーデメリットで行えるのかと。結果は仙峯寺や捨て牢などを見れば分かる通り、ヤーナムほど末期的ではない(?)かもしれませんが、余り大きく変わっていないようにも思えます。血の拝領が殺戮や蹂躙と不可分であり、その結果が「聖体」の怒りを買うことに繋がるだろうという予見だったのかもしれません。或いは、やはり単純に「成分」の差異なのか。

色々考えられるとは思いますが、個人的には「赤子」の有無を挙げたい。ヤーナムには赤い月が昇り、対して葦名には昇らなかった。この違いではないでしょうか。

それは悪夢に住まう上位者の声を表音したもので「月」の意味が与えられ、更なる血の遺志をもたらす
悪夢の上位者とは、いわば感応する精神であり 故に呼ぶ者の声に応えることも多い

当サイトを以前からご覧になって下さっている方にとってすれば「またかよ」と思われるかもしれませんが、上位者と呼ばれる神に近しいものども、その中でも「月」の名を冠する種がいるようです。それらは「月の魔物」、または「赤子の上位者」と呼ばれます。

赤い月が獣化を加速させ、それが赤子と不可分の現象であるなら、即ちヤーナムでの祈りに「月(赤子)」は感応し、応え、その結果として獣化者は生まれている訳です。ならば必然、獣化者のいない葦名には赤子が不在であると導けます。

「成分」と「祈り」が結びついた時に「虫(蟲)」は生まれる。しかしそこに赤い月が欠けているのであれば、「虫」は宿主の獣化を促さないということなのではないでしょうか。従来、月と獣は相性がいい。いま思い返してみれば単純な話だったのかもしれません。

もちろん要因はもう少し複雑なのかもしれませんが、『隻狼』と『Bloodborne』を比べて見えてくるものもある……かもしれないというお話。

意志が成るもの

さて「成分」と称してきましたが、改めてこれは遺志と呼ばれるものでした。しかし葦名の水の源流に根差したものが死していないのであれば不適切な呼称なので、こちらは取り合えず「意志」とでもしましょうか。

上述したことですが、この「意志(遺志)」は異様に変質します。『Bloodborne』では以下の通り。

血の岩 大輪の死血花 虫

石、花、虫

それでありがたい事なんですが、この「石」「花」「虫」の豪華欲張り 3 点セット、ご丁寧に『隻狼』でも用意して頂きました。

お宿り石 馨し水連 蟲

石、花、蟲

もっとも連盟が見出す「虫」に関しましては正直なところ幻影のようなものだと解釈していて、「虫に変わる」という血の遺志が持つ本質を幻視していたのかなと考えているのですが、一方で覧いただきたいのがカインの騎士たちが見出すという「血の穢れ」です。

血の穢れ

血は精

見たまま精子です。石や花、虫となる血の遺志は、その根源に「精」たる性質を有していた。だからこそ上位者による血の交わりは「赤子」を結実する訳です。遺志が石となり、果てには「ヤーナムの石」や「ゴースの遺子」に繋がるのは、全ては血の「遺志(精)」という根源へ遡らせる為の描写であったのでしょう。

また『隻狼』には「赤成り玉」というアイテムがあります。

赤成り玉

成りたいものに成れなかった肉の塊

赤成り玉
食らえば赤目と成る、赤く丸い塊
赤成り玉は、成りたいものに、成れなかった者の名残り
触れば仄かにあたたかく、脈を打っている

変若水を飲んだ者の中にこれが生じるのだとして、水に含まれる「意志(精)」が本当は赤子に成ることを望んでいたのだという仮定を踏まえると、一つの像が結ばれます。

赤成り玉は赤子のなりそこない、その肉塊です。赤ん坊に成れなかったものの名残り。赤成り玉を食べて沸き立つものが「獣性」なのだとすれば、赤子こそが獣化を促すという説の補強にもなるでしょう。ちなみに上述したこちらの記事で「上位者になれるのは女性だけ」というような事を書きました。本当はもうちょっと色々書いたのですが、ざっくり端折ると、赤子の上位者を宿す為の子宮(瞳)を持つ女性だけが、胎内の赤子に促される形で進化を果たせるのだという仮説でした。そうした上で『隻狼』を思い返してみると、「赤成り玉」を宿したのは男性 NPC だけだった(気がする)のですが、それらは瞳(子宮)を持たぬ者の中では何にも成れなかったんでしょう。もっとも舞台設定柄、登場人物の男性比率が大きくなってしまうのではっきりと断定はできないのですが……。

脱線失礼。さてこれらの事を踏まえて『隻狼』の「石」に注目したい。

お宿り石
水生村の奥の裁断に祀られていた石
源の水を長く飲んでいた者は、体の中に石が宿ることがある
お宿りは吉兆ぞ
かぐわしく、輿入れ奉ろう

次に水生村の某所にあるオブジェをご覧ください。

お宿り遺子 お宿り遺子

赤子の石

『隻狼』劇中、はっきりと形を成した「赤子」と呼べる存在はいません。いないからこそ獣化者が発生していないと言ったばかり。しかし相変わらずこの世界においてやはり「赤子」は重要な存在だと示すものはあります。

ブッダ・ベイビー おくるみ地蔵

赤子は大事

特に前者の画像、赤子を抱く菩薩は馨し水連が咲く直上に設置されています。「花」もまた「意志(精)」が結実したものだとすると、そこに赤子を示す像が設置されていたというのは果たして偶然なのでしょうか。これと併せて考えたいのが、思うに「お宿り石」とは赤子の暗喩でもあったんじゃないかと思います。水生村の面々は「お宿り石」を通して「赤子」を祀っていたんでしょう。故にこそ吉兆と喜んだ訳です。最も彼らにその自覚があったかは不明。

赤子を抱く菩薩も、赤子を抱く遺体も、それぞれ源の香気の材料が生じる場所の近くにある訳です。そして脈打つ肉塊。花も石も肉塊も、本当は赤子に成りたくて成れなかったのだとするなら、「仙郷の神」は、やはり水を介して「赤子を求めていた」のかもしれません。

捕捉 : お米は大事

「遺志」が花と芽吹く。それは死血花であり、また遺体から生じると言う墓所カビでもあるのですが、『隻狼』においても「馨し水連」の他、もう一つ「意志(成分)」が芽吹かせるものがありました。

お米(実写)

ごはんはおかずと、存じます。

水が良いのか、葦名の柿は滋養がある
柿は血となる。血は米となる
血が足りぬ者には、食わしてやると良いだろう

画像は手前で用意しました。筆者は料理が得意なんだという事をアピールしたかった。

さて血の遺志が花やらカビを芽吹かせるのと同じ理屈で、変若の御子は自身の血から「お米」を生じさせることができる訳です。だからお米をくれた御子はやがて貧血症状を起こし息も絶え絶えとなっていたのですが、それを柿によって補填することが出来ました。『Bloodborne』では「輸血液」によって回復効果が見込めましたが、理屈としては同じでしょう。「お米」には特別な血の如き効果があり、また柿も同じ。葦名に流れる特別な水は、巡り巡って特別な血を作る訳です。

個人的な感想ですが、両作品では血、正確にはそこに宿るものが有する真反対の性質を描写しています。『Bloodborne』ではあれほどおぞましかった血の効能が、『隻狼』においては尋常の「食べ物」として「人の営み」に昇華されている。この世界もまだ捨てたもんじゃないんだなと、そう思えるのです。

ちなみになんですが、血による回復と言えば、僧に宿る百足は掴み攻撃をしてきます。被弾すると喰いつかれ、当然こちらはダメージを受けるのですが、交換するかのように敵の体力は回復するんですね。これこそが「リゲイン」と呼ばれる力の秘密なのかもしれない、というお話も併せてどうぞ。

不死の苗床

そろそろこちらの謎に答えを出さなければなりますまい。

本編のラストボス、剣聖 葦名一心は孫である弦一郎からブリッと捻り出されました。

孫から生まれる孫の祖父

黄泉帰れ! 空と大地が交差している 今たたずんでるこの世界で 命がうまれ また沈んでく

黒の巻物
不死斬りには、赤の他に、もう一振りがある
即ち、黒の不死斬り。その銘は「開門」
黄泉への門を開く刀なり
黒は転じて生を成す
竜胤を供物に乞い給え

書いてある通り、黒の不死斬り「開門」には死者を黄泉帰らせる能力があるのでしょう。劇中そうしたように、「開門」と竜胤の血によってそれは叶えられた訳です。なるほどと言った感じなんですが、ここをもう少し掘り下げてみるなら、一心は弦一郎を苗床としてしか黄泉帰ってはこられなかったんじゃないかと思います。正確に言うのなら変若の澱を飲んだものからしか生じることが出来なかったのではないかと。

何故かと言うと、ここで蟲憑きについての項で述べさせて頂いた、「水に溶けた『成分(意志)』が宿主の中で蟲となる」という仮説が効いてくるように思えます。弦一郎は変若の澱を飲みはしても、この時点では蟲憑きではなかったのでしょう。蟲憑きであればもう少ししぶといはずというか、破戒僧などのように倒される際にそれを吐き出すのではないかと。もちろんこれも推測に過ぎないのですが、肝心なのは、この時はまだ、弦一郎の中で変若水は形の無い「成分」だったということ。

結論を言います。「成分」が祈りによって「蟲」の形を取るのなら、願うことで「葦名一心」の形を取ってもおかしくないのではないかと

蟲 爺

蟲と爺、ともに人体を苗床に生じたもの

「開門」の能力とは、竜胤が持つ「回生」或いは「不死」に纏わる力によって、「意志(成分)」へ具体的な形を取らせる事なのではないでしょうか。それでは苗床となるものが変若水を飲んでいないと成り立たない事になるのですが、変若水もまた竜胤の一部なので、「竜胤を供物に乞い給え」という一文と矛盾しないのではないかと思います。そう踏まえると並べた画像の通り、弦一郎から突き出す一心の腕が蟲の動きに似せてある……ように見えるのですが、どうでしょう。「乞う」ことを「祈り」と解釈するのなら、弦一郎は願った訳です。葦名そのものであった「剣聖」の帰還を。

蟲憑きは死なずだと言います。故に肉体を幾ら破壊しようとも死ぬ事は無いのですが、裏を返せば「不死」の本質とは「蟲」にこそあるとも言えます。だからこそ不死斬りで蟲を両断した時のみ、「不死斬り」の表記が出る訳です。

一心戦も同じでしょう。「不死斬り」によってのみ決着が叶ったというのは、一心自体が不死であったということ。つまり蟲と一心は同質の存在だという示唆だったんです。不死斬りによってのみ不死を斬ることが可能であるのなら、本来であれば宿主(弦一郎)の身体を必要とする蟲(一心)を、そこから斬り離す。「不死斬り」という言葉にはそういう意味もあったのかもしれません。

余談になってしまうのですが、一心の散り様はひらすらにかっこよかった。死を選ぶ事がイコールかっこいいと言っている訳ではなく、劇中において人を超えた者達がいずれも「常しえ」を求める中、しかし一心は敗北と共に介錯を要求するのです。竜胤、不死、常しえ、人の世を淀ませるアレコレを、「剣聖」は一喝してねじ伏せてみせた。生き様とは、死に様と見つけたり。他ならぬ不死となった一心がそれを行うからこそ、惚れ惚れするほどの反証と成る訳です。葦名一心、まさしく剣聖でありました。

継承、遺志強奪

不死斬りの話が出たところで一端『隻狼』を離れますが、結局のところ『Bloodborne』における獣化者を蟲憑きとしていいものかは判断が分かれるところだと思います。なぜなら獣は不死斬りも無いのに殺せるからです。

ただこれに関して答えを出すのはやはり簡単な事で、単純に「成分」の差、両作品の祈り・教義の差だと言ってしまえば終わりです。或いは赤子無き葦名では獣化が起きない代わりに、内なる寄生虫がより尖った変態を遂げたという解釈もありでしょう。獣の中に潜むのが柔らかで未成熟の象徴のような蛆であるのに対し、不死の中に潜むのが硬質な百足の類であったというのがそれを示すでしょうか。しかし色々解釈がある中で、仮に「獣もまた蟲憑き(不死者)」であるとするなら、狩人がそれを殺害できる理由に思い当たるものがあります。

継承
それは狩人の有り様である。すなわち血の遺志を継ぐ者だ

継承こそ狩人の有り様。事実、劇中で狩ったものから「血の遺志」を得て、狩人はそれを自分の力としました。これは忍びさえも持たぬ力です。シンプルな話、狩人が「継承」という形で遺志を奪う能力を持つのなら、これによって遺志の具現である「蟲」を害することが出来たんじゃないでしょうか。何だったら狩人は亡霊に属する怪異すら切り伏せていました。つまり狩人とは生ける「不死斬り」だったのかもしれず、対し不死を斬る刀「拝涙」とは、狩人が持つような「意志を継承(強奪)する」能力を付与された武器だったのかもしれません。故にこそ、「拝涙」は可能だったのではないかと。

(追記) と、勢いで書きましたが、「継承」と「拝領」は『Bloodborne』において明確に異なる業として設定されていました。血を介し遺志を継ぐのが「継承」ならば、聖体の効能それ自体に着目したものが「拝領」。「拝涙」とはそのどちらだったでしょうか。

不死の終わりに

最後に書いておきたいことがあります。仙峯上人はなぜ死んでいたのか。

前項において、不死たる蟲もまた条件さえ揃えば死ぬかもしれないという話をさせて頂いた訳ですが、神なる竜に蟲を賜ったとされる開祖・仙峯上人もまた、最終的には胎内くぐりの中で死亡していました。これには変若の御子もびっくり。なぜなら仙峯上人は既に齢幾つかも測れない不死。それが何故に死んでいたのか。

ちなみにですが「胎内くぐり」という言葉からも「赤子」の影を読み取れます。蟲とは元を「意志(精)」とします。精が本来であれば「赤子」として結実する事を望むのであれば、或いは「蟲」とは不完全な変態なのかもしれません。だから闇の中、そこを胎内となぞらえ、蟲を知る仙峯上人は内なる「蟲」を「不死の先」へと至らしめようとしていたのではないでしょうか。

永旅経・蟲賜わりの章
われ、蟲を賜わり、幾星霜
死なずとは、長き悟りの旅路なり
死なぬ訳もまた、悟らねばなるまい
神なる竜は、西の故郷より来られたという
我に、蟲を授けられたは、なにゆえか

神なる竜が蟲(精)を授けたのは、やはり「赤子を求めた」からなのでしょうか。ならば胎内くぐりとは、竜の意を汲んだ上人が、自らの内に蠢くものを赤子と成す為のものだったと解釈できます。

しかし幾星霜を生きた仙峯上人は最終的に死亡します。「永旅経・蟲賜わりの章」を狼に授けた際、彼は変若の御子への「償い」を口にしていました。彼の心に何が去来したかは不明です。しかし一つ思いついたことを述べるのであれば、仙峯上人は懺悔の後に信仰を捨てたのかもしれません。信仰、即ち祈りが蟲を成し、また常しえに永らえさせるのであれば、祈り無き宿主の中で蟲は生存を許されないとも考えられます。だから活動を停止した。

蟲を宿し、或いは赤子を成す為の探求を続けた先に生まれた変若の御子。上人が最期に御子に対し抱いた想いは、もしかするなら「親心」だったのかもしれず、子を成す為の探求は、子を成した事で終わりを告げたのではないでしょうか。皮肉にも、そんなありふれた人としての愛情を獲得する事こそ、「悟り」と呼ばれる境地だったのでしょうか。

(追記)え、仙峯上人って「永旅経」くれた人と違うの? なんてこった……じゃ、じゃああんた誰なんだよ。怖ぇよ……孤影衆だよ……。

(追記 2)まあオチを付ける為の(変若だけに)「親子」というくだりでしたが忘れて頂くとして、しかしながら「成分」を蟲たらしめるものが「祈り(信仰)」であり、それを喪ったからこそ上人は死んでいた、というのがこの記事の本意ということで一つよろしくお願いいたします。悟りとは、信仰の果てにそれを喪うことと見つけたり。たぶん。

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