「糸の端」が出ないので。 - 『ELDEN RING NIGHTREIGN』レビュー -


2025.09.10

いま緊急で記事を書いています。なぜなら「糸の端」が出ないからです。執筆合間にリムベルドを走るので、書き終わる頃には出てくれることでしょう。

止まない雨は無い。然るに出ない糸も無い。あんたもそう思うだろう?

言い忘れていましたが、当然『ナイトレイン』のネタバレあり、『エルデンリング』本編のネタバレもほんのりとします。

ちなみにこの記事を公開する日(2025.9.10)に丁度アップデートが入っていて、まだその内容を知らない人間が以下を書いています。しくよろ。

はじめに

『Demon's Souls(デモンズソウル)』というゲームがあります。2009 年 2 月 5 日のタイトルでした。

以下は発売当時の開発陣のインタビューからの引用なのですが、興味深いくだりがあります。

攻略法を考える楽しみや,うまくいったときの達成感を得るためには,やはり失敗が必要な要素だと考えました。その最も分かり易い形が,Demon'sSoulsでも採用した「死」だったんです。ですから,最初の企画書には「ソウル体(一度死ぬと肉体を失った状態になる)で死んだらキャラロスト」って書いてあったくらいです(笑)。そのくらい“死”というものを念頭においたゲームデザインを考えていました。

なぜいまマゾゲーなの? ゲーマーの間で評判の“即死ゲー”「Demon's Souls」(デモンズソウル)開発者インタビュー

なんと企画書段階の『デモンズソウル』にはキャラクター・ロストの仕様が存在していたのだそうです。とは言え、これは当時販売元の SCE へのプレゼン用に極端めなコンセプトを記述していただけで、実際は早々に棄却したとのこと。高難度であり「死」が避けられないからこそ、「死ぬ」ことそのものをゲーム・デザインに織り込もうとした意識の顕れだったのでしょう。フロム・ソフトウェアが送る「死にゲー」の時代の始まりです。

昨今語られるところの「フロムゲー」とは基本的にこの『デモンズソウル』以降の「死にゲー」、ソウルシリーズを基盤とする作品群を指すのであり、それ以前の確実に源流として存在するであろう『キングスフィールド』や『シャドウタワー』、『エコーナイト』に『ロンQ! ハイランド in DS プープー星人現る!! 出ケツ大サービス! おならの祭典 SP』などは先史文明的に追いやられてしまっているのが実際のところでしょう。

この風潮に対し、古老のフロムファンは憤懣遣る方無い思いをされることも多々おありでしょうが、『デモンズソウル』の登場によって以降のフロム・ソフトウェアの作風が方向づけられたのも一つの事実。なぜならこれが大いにウケた。

『DARK SOULS』シリーズ、『Bloodborne』、『隻狼』……彼らが生み出した「ソウル」シリーズ及びその近似システムは、ずっと支持され続け、経った月日は 10 と余年。

その日、あえて言うところの「ソウルライク」の血を累ね続けてきた会社による、「フロムゲー」の粋(スイ)、正統進化と言える作品が遂に発売されることとなります。2022 年 2 月 25 日。スーパー・ウルトラ・ビッグ・タイトル『ELDEN RING(エルデンリング)』でございます。

最高到達点

感じる……「糸の端」が出る可能性がどんどん高まっているのを。続けます。

フロムはプレイヤーに何を体験させたがっているのか。近代のそれに関して言えば、如何にプレイヤーに「冒険」をさせるかという点に重きを置いていると考えます。

困難な道のりを、多くの敵を少しずつ削り取るように歩を進めていき、武器と肉体を着実に鍛え上げ、やがて巨大な敵を打倒する。多様な武器や戦術のうち、何を選べば強力なのか。そもそもこの世界はどうなっていて、何をどうすりゃいい物語なのか。

フロムゲーにおいてメインのストーリーすら明瞭でないのは、そこに考察の楽しみを見出す為だとは思いますが、別に内容が分からないままでも、ただ動くものを殴り倒してさえいれば話は進むし、最後まで首を傾げたままエンディングが見られる親切仕様にはなっているので、究極的には「どっちでもいい」んでしょう。ただ、戦闘も物語も、プレイヤー自身が思考して積み上げることに意義と歓びがあるのだと、きっとフロム・ソフトウェアは信じている。

また軽くネタバレになりますが、ソウルシリーズなどはゲーム開始地点、或いは冒頭の拠点がラストステージに直結する構成になっていることが多く、それは「はじまり」の景色を「おわり」の景色と重ねることで感慨を深める効果を狙ってだと邪推します。「冒険」とは行って戻ってくること。

そして『エルデンリング』。この作品が目指したものは、まさしく「冒険」の最高到達点でした。

いつものように終わりかけた世界に放り出されて、襲ってくるドラゴンとかおじさんをボコボコにしていると、最後には王様になった貴方がそこにいる。この「いつものやつ」を、オープンフィールドの名を借りて、より複雑に、立体的に、よりギッチギチに詰め込んだ、何ら憚ることのない、足し算の極北、究極の横綱相撲!

加えてこの 2 年後に発売される DLC(『SHADOW OF THE ERDTREE』)と合わせると、ちょっとどうかしてんじゃないのとすら思わされるボリュームとなっております。そう、ボリューム。

宮崎氏:苦労したポイント自体は結構ありますが、一番苦労したのは『ELDEN RING』のコンセプトでもあった冒険感を、DLCの中でどのように再現するのかというところです。結局のところ、DLCとしてはかなり大きなボリュームになってしまったのですが、その判断もひとえに冒険感のためにということになります。

『ELDEN RING 2』は考えていないが、「新たな展開を否定するということではない」──。フロム・ソフトウェア 宮崎英高氏が「PlayStation Partner Awards 2024 Japan Asia」にて受賞インタビューに登壇

ボリュームです。ボリュームという土壌からだけ咲く花がある。リンク先のインタビューで語られる通り、まさしくフロム・ソフトウェアはプレイヤーに黄金樹への長い長い道のりを歩ませたかったのであり、その道程を苦難と黄金で飾り立てる為に、とにかく詰め込めるだけ詰め込みました。

これを書いている人間などは単純な脳の作りをしているもので、やってもやっても終わらない、何なら黄金樹にたどり着いても終わらない冒険に日々興奮物質を垂れ流しにして脳を蕩かせていたわけですが、このボリュームという長所は、どうやらそのまま短所となります。

まあ、長すぎたんですよ。そしてストーリーが難解であるということは、ストーリー上の訴求力が希薄であるとも言い換えられます。「黄金樹に向かう」という強固なプロットだけではモチベーションが保てなかったプレイヤーも少なくないわけです。

特に『エルデンリング』はそのボリュームに比例し、過去類を見ないほどフレーバー量が多いため、だからこそ考察は一番簡単、いや逆に難解になっている、と意見が割れているそうです。実際はどうなのでしょうか。一説ではあまりの難解さに考察勢が匙を投げ、投げた匙は一筋の流星となって狭間の地でエルデンリングになったといいます。

誰も彼もが我々のように世界の秘密を解き明かしたいと思いながら生きている訳ではないし、エルデンリングが壊れた理由なんか YouTube で調べればそれっぽいのがゴロゴロ出てくるわけで、じゃあ動画でよくね。

個人的には物事を途中で止めてしまった、というのはそれはそれで一つの体験だと思うタチですが、それでもフロムが望むところの「冒険」から振り落とされてしまったユーザーが一定数いて、その敷居の高さをある種のブランディングとして今後もやっていくしかないのだろうかと、卑小な いちプレイヤーながら勝手に心配していました。

しかし当のフロム・ソフトウェアは、この「長すぎる」という弱点をとっくに自覚していたし、そしてこれをあっと驚く画期的な方法で克服してみせました。短くしたんです。

2025年5月30日。『ELDEN RING NIGHTREIGN (エルデンリング ナイトレイン)』の発売です。

傘をささずに踊る者がいてもいいが、今日はちょっと忙しい

「糸の端」は出ないのではない。今まさに出ている途中なのだ。続けましょう。

『エルデンリング ナイトレイン(以下、ナイトレイン)』。ゲームエリアはリムベルドなる土地に限定され、我々は「夜渡り」としてここを駆けずり回りながら、時間制限内で大ボスに対抗する準備を整える――そういうゲームになっています。

「準備するゲーム」なのです。レベルは、付帯効果は充分に積めているか? ボスの弱点属性は? キャラ性能や、自らのプレイヤースキルと噛み合った戦術を立てられたか? 「準備」こそ仕事の大半であり、ボス戦などはその答え合わせと言って良いでしょう。

忙しいゲームですよ。そして 40 分以上掛けた準備が、或いは一瞬で台無しにされる。そしてよしんば討伐に成功しても、積み重ねた強化は次の出撃時に全て没収されてしまう。

『ナイトレイン』は近代フロムゲーから「冒険」を取り上げ、ただ「アクションゲームであること」のみにステータスを尖らせた作品と言えます。そこには一切の旅情が無い。どこへ向かえばいいのか分からないワクワクや不安感も、そろそろ限界だと弱音を吐いたタイミングでショートカットが繋がってくれた感動も、長い旅路の終わりに、来た道を振り返ってみる感慨も存在しません。

なんだこれは。こんなもんが……ンま~面白い。

いろいろ要因はありますが、個人的に思う『ナイトレイン』の面白さは、過去作が「冒険」を成立させる為に嵌めなければならなかった「枷」を外したところにあります。

まず固有のプレイアブル・キャラクターを用意したこと。これによりキャラクターメイクは撤廃されました。キャラクターの強化も経験値を集めてレベルを上げるだけに留め、ステ振りは必要なし。武器の強化も容易だし、ものによってはその必要すらなし。何より使いたい武器がステータス不足で使用できないという煩わしさが無い……わけではないですが、使用制限はレベルによって解決します。キャラによって一切使用できないということはない。加えて様々な武器、魔法や戦技が手軽に入手できるので、「本編」と比較して「じゃあこいつを使ってみるか」の敷居が圧倒的に低い。この全体的に徹底された敷居の低さがチャーム・ポイントなんです。

当時から思っていたことではあるのですが、『エルデンリング』本編では、装備がボロボロと入手できる割に、特に序盤での強化手段が乏しい為に「取りあえず強化してみる」ことに対して心理的な抵抗を生んでいたように思います。更に言えばソウルシリーズのシステムに不慣れなプレイヤーにとっては、多くのステータスのどれに経験値を割り振ればいいのか分からなかったことでしょう。多くのプレイヤーは「何でも良いから試してみる」ことに臆病であり、ゲーム難度が高ければ尚更。試行錯誤は冒険を醸成する上で間違いなく有効ですが、それは万能薬などではなく、時に重石となり枷となるのでしょう。

フロムはプレイヤーを救いたいと思ってた。だから雨を降らせることにしました。濡れれば死ぬ。傘が落ちている。目当ての柄では無かったとしても、それしかないなら使うしかない。アレコレ悩む時間を剥奪することで、臆病だったはずのプレイヤーは猛然と走り出します。

拾った武器が押し並べてそれなりに強い、というのがまたニクらしいんですよね。「本編」では残念ながら運用が難しいと判断された武器や魔法も『ナイトレイン』においては強力に機能し、使ってみればこんなに強かったのかと再評価されるケースが多く確認されています。強力さという話で言えば、潜在する力や付帯効果によってキャラ性能をアホほど高められるのも楽しい。走った分だけ強くなり、強敵を倒しただけ、血肉となって報われる歓びがある。しかしこんな無茶苦茶は夜が終わればリセットされるから許されていることです。本編の長い道のりでこんな強化体制を敷いていればゲームバランスも何もあったものではない。でも最後に全て失うなら、どれだけ手に入れても問題はないでしょう。

そう。『ナイトレイン』の楽しさは、ある種のキャラクター・ロストが支えているのです。

かつて『デモンズソウル』の開発時、フロム・ソフトウェアが「死にゲー」を作るに辺り企画書に記載していたキャラロストの仕様。当時は撒き餌のように扱われ、すぐに棄却されたこの凶悪な仕様の中に、実のところ『ナイトレイン』の息吹は存在していました。

もっとも、長所が万人に作用することはないとの前述はそのまま『ナイトレイン』にも返ってきます。『エルデンリング』本編にはハマれても、『ナイトレイン』はすぐに止めてしまったという意見もそれなりにある御様子。重要なのはフロム・ソフトウェアが『エルデンリング』というタイトルから、この両極端と言えるタイトルを作り出した点でしょう。まさしく活殺自在。これまで「死にゲー」を作りながらも、プレイヤーから「奪い過ぎない」ことで冒険のモチベーションを維持させようとしていた企業が、今や「より多くを与え、より多くを取り上げる」ことで、むしろプレイヤーのモチベーションを高めている。今やフロム・ソフトウェアとはこれほどまでに自由なのです。

ちなみに全て取り上げられるとは言いましたが、もちろん遺物の事は忘れていませんよ。あれはね、ひどい。モチベーション発生装置です。勉強する気の無い人間を「5 分だけ」机に向かわせればその後の集中も継続するケースが多くあるとされますが、フロムはプレイヤーを 5 分だけ机に向かわせる怪物です。彼ら御用達の「落とした経験値を拾わせる」ことも、小さな目標をプレイヤーに刻み込むことで、ワン・モア・プレイを促している。今作のガチャ要素などその最たるもの。リムベルド自体がガチャだ。下振れてしまえば「今回は引きが悪かった」、そして上振れの結果必ず出撃が成功するわけでもない。あそこをああすれば勝てたかも。じゃあ、もう ひと渡り行きますか。

助けてくれ! 我々は壮大なガチャをやらされている。夜の王戦までを含め、全て遺物のためのガチャ演出なのかもしれない。

孤独のレビュー

はい。フロムがローグライクと『エルデンリング』を掛け合わせたぞ、というだけの内容を我ながら大袈裟に書いたものですが、だって「糸の端」が出ねぇーんだもの。さっき Y シャツの胸ポケット探ったら出てきた糸クズじゃ駄目なのかな。

駄目みたいなので、じゃあ見つかるまでレビュー記事らしいことを書こうかとも思ったのですが、いまこのタイミングで言っておかないといけない事があるので言います。

実はまだ一度もマルチでやったことがありません。マジで。一度もです。

正確にはオンラインに繋いでいるので他世界の遺体がドロップするアイテムに助けられたことがあり、その点 完全なソロプレイとも言えないのですが、出撃自体はマルチ未経験です。

日頃からあんまりマルチやらないってのもあるんですが、遊びながら内容について考え込んだり、クリアそっちのけで敵や風景を観察する癖がある手前、人様と遊ぶことに及び腰になってしまうんですね。

さすがにソロプレイが難し過ぎたらそういうわけにもいかなかったんですが、発売後早々に緩和アップデートを入れてくれたこともあり、幸い何とかなってます。噂に聞く限りマルチの方が難しいらしく、まあ今後の楽しみってことで一つ。

というわけで以下、ソロプレイヤーによる各キャラ雑感でもつらつら書いていきます。もう大分攻略も進んでいる時期でしょうから あんま目新しいことも書けませんが、それもこれも「糸の端」が見つからないのが悪い。そうは思いませんか。

追跡者

無頼漢

鉄の目

復讐者

隠者

レディ

守護者

執行者

ストーリーについて

出ないんだけど、「糸の端」。全部デマなんだという気がしてきた。誰も本当のことを言ってくれないので、最後にちょっとだけ、ストーリーについての感想なぞを述べて終わろうと思います。

「可能性」の物語でした。

そもそも「エルデンリング」とは何だったか。本編遊んでもよく分からなかった人や、『ナイトレイン』から入った人に軽く個人的な考えをお伝えしておくと、それは巨大なルーンであり、世界に対する大いなる号令であり、全てはエルデンリングを基とする黄金の律の支配下にあります。

流れる星をすら律し 命の灯を高らかに輝かす

エルデンリング おお エルデンリング

『ELDEN RING』 デビュートレーラー

星の流れを、運命すらも制御してみせる律は、ある日、突如として壊れました。誰か、或いは何かによって。この後、砕けたエルデンリングの欠片を所有するデミゴッドたちによる争い(破砕戦争)が勃発。「本編」はその壊れた世界で始まるお話となっています。主人公である「褪せ人」が、エルデンリングを修復し、エルデの王となるまでの物語。

そして『ナイトレイン』では、エルデンリングの影響力が弱まった間隙を縫うようにして、「夜」が狭間の地へと迫ります。「本編」をやると何となく窺えるのですが、狭間の地は、「腐敗」などの外なる神々に絶えず浸食されているようです。理由は恐らく、そこに黄金律の中枢たる黄金樹が聳えたっているからでしょう。これは解釈のひとつですが、黄金樹とはエルデンリングによって稼働し、律を機能させるための装置だと考えています。推測が正しいなら、他の神性がこの装置を用いて、新たなる律を発令することもできるのではないか。もし夜が黄金に成り代わろうとしているのだとすれば、我々は夜を渡り、それを食い止めなければならないのです。

夜。それは運命を変えるためにやってきました。

夜の王が持っていた資質

可能性を色濃く宿し 運命を変える力を持っているという

夜の気配 - 『ナイトレイン』

夜の力が混ざり込んでいる刃片

破損した断面に結晶がこびりついている

まるで失った部分を補うように あるいは、本来より鋭利になるように 暗い塊は、ゆっくりと広がり続けている

夜の刃片 - 『ナイトレイン』

夜の王たちにはそれぞれ目的があったことが推し量れます。

分かりやすいところだと夜の爵エデレは食べるものが無くてああなったそうです。腹が減っていたから、夜にそれを求めた。

夜の識グノスターなどは、砂漠化した故郷を追われ、しかし夜の力を目処に進化の道へと踏み出した、と遺物のテキストは読める。後半戦(ヒートアップ時)においてバトルフィールドに葉が繁るようになりますが、恐らくこれはある種の緑化なのでしょう。環境に適応するのではなく、環境を変えてしまう。これが運命を変革する、可能性の力です。

闇駆ける狩人フルゴール。その失われた左腕は、仲間の絶望と裏切りと、斬り捨てられた信仰の証であるのでしょう。堕ちて尚、神を信じたフルゴールは、常夜の中で遂に左腕を取り戻します。夜とは失われたものを再び得る力でもある。夜の王フルゴールは、信仰を棄ててしまった仲間達の中に、それを再び灯したかったのでしょうか。

夜の魔リブラは公平を尊ぶ悪魔でした。それ故に万物を区別なく溶かす狂い火を宿したのだろうと思われますが、そんな悪魔が夜に興味を示すのは当然の成り行きなのでしょう。運命を変える力を、全員が手にする。これほどの公平はありますまい。余談として、リブラは悪魔と呼称されますが、「本編」における狂い火の象徴たるシャブリリとは実際にある悪魔(悪霊)の名だそうです。火とはいつの世も悪魔(デーモン)の傍らにあるのでしょうか。

最後に相対する、原初の夜の王ナメレス。かつて英雄に敗れたという騎士の慟哭が呪いとなり、雨を喚び、夜の始まりになったようです。その目的は(そんなものが残っているのかは)不明ですが、夜が運命を変える力であるなら、失った全てを取り戻したかったと考えるのが直感的に捉えやすい。或いは自らを打ち破った「英雄」との再戦を望んでいたのでしょうか。

一方で、最初に相対する夜の王、ナメレスの剣(グラディウス)は、夜に何を果たそうと言うよりは、そのケルベロスのような様相から、出典通り「番犬(剣)」の役割を背負っていたことが窺えます。しかし個人的には、遺物のテキストにあるように、ただ男の「そばにあろうとした」だけなのかもしれないなと思っています。

そして「生きたい」という少女の願いを宿して動き出した人形も、王でこそ無いにしろ、夜の力で欠落を埋めようとした一人でした。

願いの大小も、願う者が何者かも関係ありません。君が望むなら、それは強く応えてくれるのだ。

その他夜の王たちは割愛するとして、ともかく王たちはそれぞれが夜の力で何かを変えるため、或いは取り戻すため、もしくは独特の理由から狭間の地へと迫ります。運命を律する黄金と、運命を変える夜。これは二つの勢力の、世界の覇権を かけた闘いなのでした。

顛末は、皆様もご存じの通り。

共通エンディングで、一粒の小さな光が巨人樹(?)に触れ、その巨大な体躯は黄金樹に背を向け歩き去って行きます。お察しの方も多いでしょうが、あれは『エルデンリング』本編の冒頭で、倒れる褪せ人に光が触れ、再び立ち上がらせた光景と重なるものです。

ここの解釈はまた機会を設けて行いますが、取りあえず簡潔に読むなら、あの光の粒は祝福、或いはその一端なのでしょう。黄金の律が、文字通り「律する」力であるなら、祝福とはそれを宿した者を律し導く光の筋です。原初の夜の王を討伐した後、黄金は輝きを取り戻したのか、その祝福によって、恐らく夜を運ぶ巨人樹に背を向けさせた……これがラストシーンの意味だと、現段階では捉えています。壊れて尚、他の神性に対しあの強制力。本来の黄金律がどれほど絶対的なものであったかが窺えるというものでしょうか。おお、エルデンリング。

一方で、本作は一応マルチエンドを採用しており、共通エンドから外れる選択をすることで到達できる幾つかの結末があります。

まず隠者。これはよく分からない。こちらもまた別の機会を設けますが、ナメレスを倒しているので、夜明けを迎えてはいるものと思います。此度の夜は退けたけれども、その残滓は「かじりやさん」の中に預けられた。特別なものを宿した赤子が、何か特別な任を与えられているのなら、ある意味でこれは「幼年期の終わり」と言えるのかもしれません。

次に鉄の目。繰り返しますが、近代フロムゲーはループ構造を織り込んだストーリーになっている作品が多い。それは「まだこのゲームを続けたい。終わりたくない」というプレイヤーの視点と同期するものでもあります。ラスト、隠された円卓にて鎮座する遺体が、夜を明かす為に必要なものであるなら、それを破壊する鉄の目の行為は、夜を止める手段を永久に放棄したということでもあります。これで夜は終わらない。もしかするとそれは夜の侵攻を助ける背信行為ですらなく、王も目的も失った夜は、ただ世界を飲み込み続けるのでしょうか。『ナイトレイン』は終わらない。今後のアップデートもよろしくお願いします。

そして追跡者。円卓でしか生きられない者がいるなら、円卓と供に夜も維持されなければならない。だから彼は自らに王たるを複製し、夜を抱えて歩み続ける道を選びました。新たな王が新たな夜を生み、一新される円卓から古い巫女だけが解放されるようにと。

夜が終わらないという意味では鉄の目エンドと重なる部分はありますが、ポイントとしては、あの空間においてナメレスが歩を進めていた方向から、新たな王は踵を返したように見える点でしょうか。あのような形になった彼がどこまで理性と呼べるものを残しているかは分かりませんが、少なくとも、肝心な、最も脅かされてはならない場所から夜を遠ざけようとしている風にも見えます。新たな夜は彼の中で無害化されたのでしょうか。そんなに都合の良いものなのか。仮にそうだとして、それはいつまで「もつ」のか。新たな円卓に関し「備える」とある点から察するに、やはりこれは、ただ一人を救うために多くのものを犠牲にする、そのような決断なのだと思います。こうして追跡者であった彼は、今度は追われる者として、夜の深淵を歩き続ける道を選びました。

……素晴らしい。綺麗なエンディングだと思います。自己犠牲、愛、高潔さ、決断。ある種の王道と呼びたくなる全てが揃っている。しかし至極 手前勝手な感傷として、この結末をマルチエンドの一つとして受け入れつつ、その美しさが故に反感を覚える自分もいます。なぜなら『ナイトレイン』とはこういった美しさに抗う物語であったはずだからです。

レディの追憶曰く、追跡者は円卓の外で死にかけているようです。全て夜の夢のようなものなのか、円卓に集められた夜渡りたちも本体ではないのか、「外の世界」で酷く衰弱する追跡者を、兄を、レディは救う決断をします。円卓と共に消える彼女がその決断の行く末を見届けることは叶いませんが……。

その為にも、まずは夜の王を片付けるとしよう

レディ - 追憶(Chapter 9)

熱い! 我ながら単純ですが、この熱量こそ人間の力だと感じます。

個別のエンディングが存在しないという意味で、それが用意された者たちと比較し、一見してレディの物語はその強度で一段劣るかもしれません。彼女の願いなど、世界の形すら変える夜の前では無きに等しいものでしょう。世界の残酷さに圧倒されながら、「何か方法は無いのか」と問い続けることしかできない、何と人間は脆弱なのか。しかしそんな 弱い人間の、夜に依らない力は、しかし今夜 確かに王をも打ち倒しました。

妹を助けるため夜に願った兄の追憶と、兄を助けるために自らの意志を友に託した妹の追憶。片方しか実を結ばない 2 つの意志は、やはり夜を渡ろうとする者のそれが勝ると信じたい。『エルデンリング ナイトレイン』とは、夜に抗う物語であったのだから。

特別なエンディングなんて要らない。見届ける必要もない。なぜなら既に、信じて託した。追跡者は外界で、きっとレディの意志と、それを受け取った友の手で救われる。目が覚めた時、彼はその眩さに目を細めることになる。

夜は明けた。朝が来ないはずがない。

「糸の端」は、出ない。

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