ACID BAKERY

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がんばれ右近左衛門 国盗り道中 〜倅が修羅になった理由〜

真の名は。

戦いの残滓・大忍び 梟
大忍びの梟は、身に余る野心を抱き、竜胤の力を欲した
さあ、己の真の名を、日の本に轟かせるのだ
全てはそのための謀であった

それはいつからの野望だったのか。はじめからなのか、自らの老いを自覚した事が切欠だったのか。想像に任せるしかないことですが、思うにそれは、名など明かせぬ忍びの身の上故に灯された野心の炎だったのかもしれません。

満願成就の要は竜胤。どこまでが計算づくだったのかは分かりませんが、回生の力を宿した倅に、梟は主への裏切りを命じます。忍びの掟は絶対。育ての親にマジ感謝。かくして隻腕の倅は義父の命に従い、果てには剣聖すらも斬り伏せるのでした。

素晴らしい。老いたりとはいえ、あの一心すらも……。自分の教え、その熟達を心より歓び、野望達成への確かな手応えを感じたまま、梟は燃える天守閣より高らかに号令をかけます。さあ、己の真の名を、日の本に轟かせるのだ。

「これで全て我が手の中よ。葦名も、内府どもも この国ごと、喰ろうてくれるわ! 我、薄井右近左…」

どうして儂がこんな目に

倅を殺しただけなのに

影落とし、お返しいたす。

自らを貫く凶刃。なぜ? 確かに平田家滅亡を先導したし自分の目的の為に倅を一度は殺したけど、どうして儂がこんな目に!? とほほ、もう野心はこりごりじゃよ〜!

あの親思いの倅が……

こんな風に育てた覚えはないのに

以上の事からご理解頂けたように、今回は「修羅」「怨嗟の炎」についての記事になります。

修羅と怨嗟、そして鬼

修羅について

人は時に修羅へと落ちるのだそうです。

仏師にどぶろくを振る舞った際の台詞、抜粋

仏師「傷がうずくのよ」

狼「その左腕か」

(略)

仏師「…斬って…くださったのじゃ…プハァー! 飲まれかけた、儂のためにな…」

狼「何に、飲まれかけたのだ?」

仏師「…修羅」

かつて「落ち谷の飛び猿」と呼ばれた忍びが修羅に飲まれかけ、しかし一心によって左腕を切断された事で阻止されました。この物語にはまだ続きがありますが、取り合えずはもう一人の修羅に注目してみましょう。

一心に猿酒を振る舞った際の台詞、抜粋

一心「こいつはな、修羅酒とも言う。…昔、儂は…修羅を…いや、修羅の如きものを、斬ったことがある」

狼「それは、一体…」

一心「斬り続けた者は、やがて、修羅となる。何のために斬っていたか…。それすら忘れ、ただ斬る悦びのみに、心を囚われるのじゃ。お主の目にも、修羅の影があるぞ」

この台詞、「大忍び 梟」撃破前後で差分があり、撃破後において一心は狼から「修羅の影は消えた」と述べます。なるほど、梟戦前のやり取りは、親か主かを選ぶ大事な一幕です。忍びの掟において「親は絶対」。その親の命令の上に御子への忠義があるのであって、親が一度命じれば主従の関係など解消されるのが当然の事。しかし狼はこの命を拒否します。忍びとして生きた男が、「己の掟」を定めた瞬間でした。この時を以て狼の中から修羅の影は消えたようです。

さて修羅とは何か。一心曰く斬る悦びに囚われた者だそうです。合点がいく話ではあります。何の為に剣を振るうのか。それを定めず、ただ「斬る為に斬る」という閉じた輪の中に身を置くものが修羅なのだと。

戦国時代は主従の世、身分の世と言っていいでしょう。中でも忍びという者達はひと際強固な檻の中にあるのかもしれません。そして飛び猿と狼は、命じられるがまま忍びとして生き、やがて斬る悦びに侵され修羅に飲まれた。そんな話のようです。

ちょっと妙じゃないですか。

なぜこの二人なんでしょう。戦国時代は主従の世。忍びも、それを従えるものすら、誰かに従い生きている。その中にあってなぜ飛び猿と狼だけが修羅に飲まれたのか。それとも修羅に飲まれるというのは『隻狼』世界における「戦国あるある」なのでしょうか。

二人ともに隻腕という共通点こそありますが、飛び猿が修羅を見出されたのは腕を切断される前なので直接的な関係はないでしょう。腕云々は「その後」に効いてくる。という訳でちょっと思いついたのが、とても単純な話、二人が「優しかったから」ではないかと。

梟という忍びは、劇中のあれこれを見る限り「外道」でしょう。悪に属すると断定していいと思います。しかしその男にして、修羅に飲まれた狼の姿は驚愕すべきものとして映りました。梟は外道かもしれませんが、修羅ではない。

葦名一心。剣聖と称されるまでに練り上げられた剣は、故に幾多の屍を築いてきた事でしょう。むしろこの男こそ斬る悦びに囚われていたという見方も出来そうですが、それは修羅とは似て非なるものだと思います。剣の道を究める。その為に人を殺す。それは現代の価値観からすれば明確に殺戮者と言えるかもしれませんが、しかし彼がその道に「囚われた」という印象は無い。むしろ一心の「武芸者」「将」としての在り方は戦国の世においてそこまで珍しいものではなかったはずです。

要するに梟も一心も、その背景には強固な意志と、彼らなりの「己の掟」が存在していた訳です。だからこそ「斬る事」が目的化しなかった。対して飛び猿と狼は、と言っても前者に関しては描写が少ないので図りかねますが、少なくとも狼とは、同じように人斬りでありながら、大変に慈悲深い男であったと、そう思います。戦国の世において非合理なほどに。

楔丸
主である竜胤の御子・九郎より授かった刀
葦名の庶家である、平田氏に伝わるもの
失っていたが、再び狼の手に戻った
楔丸の名には、願いが込められている
忍びは人を殺すが定めなれど、一握の慈悲だけは、捨ててはならぬ…
その願い、時に刃が汲むこともあろうか

狼はとどめ忍殺を行う際に、全てではないですが「祈りの所作」が目立ちます。お蝶戦で見せた「御免」の精神。

この所作、梟が狼を忍殺する際にも行う訳ですが、きっと親から子へ受け継がれたものなのでしょう。恐らくその所作に込められた意味も教わっている。しかし梟という男がどこまで信心深いかは知りませんが、きっと狼の祈りは義父のそれとは深みが違うんじゃないかと推測します。

飛び猿の事は分かりません。しかし狼という男、忍びとして斬ってきた命その一つ一つを真面目に背負ってしまうほど、己の行いに対して真摯だったのではないかと思う訳です。人を斬る事が当然とされる戦国の世にあって、それらと正面から向き合ってしまう人間性は稀有と言えます。多くを斬る事が叶うほど強く、しかし野心や剣の道の「手段」と割り切ることはできない。忍びに見合わぬ慈悲が、しかしいつしかその者を血に狂わせていき、人間性の枷を外し、その反動が修羅を生むんです。

劇中では「忍び」という存在にスポットライトが当てられ、忍びのみが修羅と化すように読めますが、影として生き、歴史に認められる事もなく、人知れず命を奪い続けるその生き方こそが特に修羅に飲まれやすいという事なのかもしれません。

だから、害する相手への慈悲を忘れない為の「楔丸」は、まさしく斬る悦びを遠ざける「楔」である一方で、皮肉にも振るう者を修羅へ導く鍵でもあったんじゃないかと思います。善悪に依らぬ強固な目的意識、即ち「己の掟」のみが或いはそれを祓い、しかしそうでなければ……。

怨嗟の炎が漏れ出すほどに

そして慈悲の楔が外れた

ですがどうやら話はまだ終わりません。

「鬼」を討った後、大手門エリアのおばあちゃんは言います。

「…あんた、覚えておきな。怨嗟はもう、積もる先を失った。戦が続けば、世はもっと酷いことになるだろう。…だからって、あんたが替わりになることはないんだよ」

なぜこんな事を狼に言うのか。おばあちゃんは狼の「優しさ」を見抜いたのでしょう。だからこそ修羅に近く、そしてむしろ修羅から逃れ得た事で「怨嗟の積り先」、「次の仏師」に成り得る危険性すら見抜いた訳です。

そして狼が修羅へと落ちたルート、そのラストはこの一文で締めくくられることになります。

葦名は、戦国もっとも悲惨な殺戮の舞台となり その地には、後々まで鬼が潜んだという

その鬼とは、隻腕の、オオカミに似た姿だったでしょうか。

隻腕の鬼

そして人は時に鬼に成るのだそうです。まあ戦国だもんな。鬼にくらいなるさ。

戦いの記憶・怨嗟の鬼
戦場にいたのは、怨嗟の炎に飲まれた、隻腕の鬼であった
戦いの残滓・怨嗟の鬼
ある男が、修羅になりそこない、怨嗟の炎の積り先となった
因果ゆえ、なかなか死にきれぬ
だが鬼となり、ようやく逝けた
奥義・纏い斬り
この奥義を最後に、仏師は忍義手を捨てた。
極め、殺しすぎた。怨嗟の炎が漏れ出すほどに。
怨身忍者「猩鬼」
怨身忍者「猩鬼」

隻腕の怪物、怨嗟の鬼

さて仏師がこの鬼の正体である訳ですが、一体どうしたことでしょう。テキストを読む限り、「修羅になりそこなった」事が怨嗟の積り先となった原因と読めてしまいますが、そこに「奥義・纏い斬り」のテキストを加える事で違う解釈ができます。思うに飛び猿は修羅に飲まれかけ、腕を切断されて尚も「極め、殺しすぎた」為に鬼と化したようです。

前項の解釈に則るなら、優し過ぎた為に修羅に飲まれた者が、例えそれを未然に防がれようとも、「忍び義手」という離れ業によって「先」を求めてしまった。かくて修羅は再燃。仏師はそれに気づき、かつて一心に腕を斬られたように、今度は自分の意志で腕(義手)を捨てた。しかし既に時は遅かったという事なのでしょう。

修羅に飲まれかけた上で、一度は戦う術を放棄しておきながら、それを補う力を得た上で更なる強さを求めてしまった。仏師が鬼と化した理由をそこに求めるのなら、「隻腕」は直接関係ないのかもしれません。足でも同じ結果になったでしょうか。もしかすれば古い神話か何かをひも解けば「腕」と「鬼」が結びつくのかもしれませんが、ちょっと現段階では手に負えないので他の識者様に任せるとしまして、では「怨嗟」とは何かという部分を考えていきましょう。

怨嗟

人を鬼に変える「怨嗟」とは何か。上記したおばあちゃんの言を借りれば、それは何者かに積もるのだそうです。

結論を言います。怨嗟とは「こいつら」だと思っています。

怨念
怨念

仇討ちの怨念

逢魔が時
夕刻は、逢魔が時
夜の闇が日を飲み込もうとする一時
強い怨念が仇討ちの霊となり、現れることがある

ストーリーが進むと、何やら霊のようなものが襲い掛かってくる時があります。上記引用文はロード画面のものですが、曰く「強い怨念が仇討ちの霊となり、現れることがある」そうなので、これがそうなのでしょう。「仇討ちの霊」とあるので、これまで狼が害してきた者達が復讐を成そうというのでしょうか。

併せてご覧いただきたいのがこちら。

お札

お札がいっぺぇだ

荒れ寺に貼られたおびただしいお札です。パッと見た感じ、「魔除け」の類なのかなと思っていました。識者曰くこんな意味らしいですが、解釈の方向としては間違ってないのかなと。で、これら怨霊こそ「怨嗟」だとして、仏師は恐れ、或いは怨嗟によってもたらされるものを先延ばしにする為、札をマシマシにした荒れ寺に閉じこもっていたようです。

大手門のおばあちゃん

「用がなければ、もうお行き…もうすぐ、戦になる。惨い戦にね。屍は山と詰まれ、怨嗟は大火のように渦を巻き…きっと、鬼が生まれっちまうよ」

エマと仏師

「炎は…まだ、消えませんか?」

「エマよ…何度聞いても、変わりゃあしない。いくら仏を彫ろうとも、怨嗟の炎は消せぬ。押し留めるが、せいぜいじゃ」

この怨嗟(怨霊)というもの、人を害した者の前には決まって現れる「人斬りあるある」なのか、それとも加害者の罪悪感に呼応する形で出現するのかは判断が分かれるところです。ここで重要になるのが、やはり前項の、人が修羅になる条件でしょうか。誰かを斬った事への真摯な思い、生来の慈悲深さが怨念を招いてしまう。「罪を背負う」などという言い回しがありますが、その真摯さこそが人を修羅に落とし、そして一度修羅に飲まれかけたものは、ある意味で「器」として蓋が開いてしまった状態にあるのかもしれません。それが「積り先」に選ばれる理由なのではないかと思います。

そしてやがて、自らが手を下した者だけに留まらず、戦が生んだあらゆる怨嗟そのものが、行き所を求め、やがて「積り先」へと収束していくようです。そうして怨嗟は炎となり、修羅を飲み込み「鬼」を生む。どうやらそんな流れなのでしょう。

魂の器

怨嗟の鬼について何となくわかったような分かってないようなアレですが、ここでもう一つ見て頂きたいものがあります。

汎用藁人形型決戦兵器
汎用藁人形型決戦兵器の股間

こいつで桜竜と戦わせろ

『隻狼』界の「これ何なんだよ」レースを独走する巨大藁人形。これについて識者の調査を発見しました。ざっくりとした理解で要約すると、この藁人形(注連縄人形)の股間に貼られたお札は、どうも死者の霊魂を扱うもののようです。

推測するにこのお札は死者の霊魂を収束させ、それを動力として巨大人形を稼働させるためのものだったんじゃないかと。

もう一つ。

忍びの業・身業
形代は心残りの幻である
ゆえに業深いものは、形代が多く憑く
多く殺した忍びは、その身に業を背負い、生きることになる
忍びの業・心業
多く殺した忍びは、その心に業を抱え、生きることになる

今作のマジック・ポイント枠である「形代」。劇中設定に限らず、形代とは「霊魂の依り代」として編み出されたものである御様子。そうして並べてみると「藁人形」は「形代」の相似であるように思えます。つまり巨大藁人形は巨大な「形代」なんです。どうも源の宮の貴族、または仙境の神なる竜は葦名全域から「生」を吸い上げ養分としていたようなのですが、よもや死後の霊魂すらエネルギーとして利用していようとは驚きではないですか。今や世界標準となりつつある「MOTTAINAI(もったいない)」の精神は、この頃には立派に根付いていた訳です。殺すぞ。

という事は、です。「人の形をしたものに遺志が宿る」、この原理を応用したものが藁人形であるなら、突き詰めれば「人の肉体すらも霊魂が依り憑く器となる」はず。「怨嗟の積り先」とは、即ち「遺志(霊魂)の器」。「怨嗟の鬼」なる怪異は、あれほど巨大な藁人形すらも動かすエネルギーが人を依り代とした結果生み出されていた訳です。強いはずだ。

形代
藁人形
怨嗟の鬼

遺志の器

ただ藁人形を動かす「霊魂」と「怨嗟」が全く同質のものかと言われると少し違うかなとは思います。藁人形のそれが死因を問わぬ「死者の魂」全般を指すなら、怨嗟とはまさしく「戦死者の怨念」を指すのでしょう。戦火が生んだ怨念であるが故に、その遺志は人に炎を宿すのでしょうか。

捕捉の意味でもう一つ。怨嗟の鬼は戦いの最中「見得」を切ります。どうも能の演目に「猩々」というものがあるそうなのですが、この名が飛び猿の別名、その出典になっている可能性があるそうです。見得にはそれを示唆する意味もあるのでしょうが、付け加えるなら劇中のこれが理由かなと思います。

阿攻の飴
飴を噛みしめ、「阿攻」に構えることで人ならぬ御霊の加護を自らに降ろす
御霊降ろしは,人の身に余る御業
ゆえに飴を噛みしめ、こらえるのだ

このテキスト大好き。で、「御霊降ろし」と「鬼」は原理が同じなんです。前者は護国の勇者を、後者は戦火の怨嗟を、両者ともに「人の身に余る何か」を体に宿して力を得ている。しかし戦火の産んだ怨嗟は、御霊とは比較にならぬほど大きく、苛烈で、禍々しかった。だから遂には宿主(器)の方を作り変える事で、「鬼」は顕現を成立させたのでした。

阿攻の構え
怨嗟の構え

「人の身に余る何か」を降ろす構え

戦いの最中に切られる見得。これは怨嗟の鬼もまた、ある種の「御霊降ろし」が生んだ怪異だと示すものでありました。

終わりに

形代、御霊降ろし、巨大藁人形、そして鬼。これらは全て霊魂の名のもと、その依り代である事を示すフレーバーでした。重要なものは最初に提示し、最後まで一貫させる。相も変わらず、見事なり。

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