『人喰いの大鷲トリコ』メモ
発売日が確定してから湧き出てきた「本当に出るの」という気持ちが発売後・クリア後も続いてる。なんなのだろうかこれは。すっごいふわふわしてんの。
良いゲームだった。それは間違いない。トリコの存在、謎解き、演出やストーリーに至るまで「当然のように」高水準だった。ただ気になった部分が、以下 3 つある。
- 待ち疲れてしまったのかもしれない。
- 「お前の気持ちじゃねーか」と言われればその通り。ただ素人の意見として、「なぜ PS3 ではダメだったのか」がちょっと分からない。技術的な問題など、プロの方々に言わせれば必然性がボロボロ出てくるのだろうが、 PS4 だからこそ可能になったであろう部分がね、ちょっと判別できないんですよ……。
- 『ICO』『ワンダ』の中間に位置しているが故の弱さ。
- 上記は全く違うコンセプトのゲームだった。どっちが良かったかと問われても答えに詰まる。「違うゲーム」だからだ。同様の世界観・雰囲気を用いておきながら、このような両極な「遊び」を仕立て上げたというのは、誠に素晴らしいことだと思っている。が、『トリコ』は少し違った。パートナーを守り守られ、時に協力して進むという意味では『ICO』のようであり、しかし「トリコという武器」を使って敵やエリアを攻略するという意味では『ワンダ』のようでもある。要するに両作品のリソースがちょうど半量ずつブレンドされているような印象を受けるのだ。もちろん悪いことでもなんでもない。しかし尖っていたが故に無二であった両作品と比べると、やはり少し弱い。
- 「演出ゲー」になってしまっていた。
- この場合の演出ゲーというのは、「プレイヤーがコントローラーに触れていなくてもゲームが進行するもの」と捉えてくれればいい。要するに「ムービーゲー」の類だ。無論、過去作にもムービーは存在していた。今作は少しその割合が多かった気もするが、問題はそこではない。どう言えばいいのか難しいのだが、例えば少年がジャンプし、しかし飛距離が足りずに落下したところをトリコに助けて貰うといった展開がある。かと言えば反対に、「今回もそのパターンだな」と考えて行動したらそのままゲームオーバー、といったように、自分の思考が攻略に直結しておらず、悪く言えば「結果を横取りされている」感覚が散見した。「成功体験が分かりにくい」のだ。『ICO』ではイコの手が届かないところはヨルダに協力してもらうことができた。あれはイコもヨルダも行動が目に見えて制限されていることがある種のパズルとして機能していた。『ワンダ』もそういう意味では同様だ。しかし今作では、トリコという翼の折れた大鷲にできること・できないことの境界線がはっきりしていなかった。足場が崩れたところを横から掻っ攫ってくれたかと思えば、眼前で落ちていくのを捉えてくれなかったり、そしていかにも突き破れそうな扉を壊してくれず、しかし反対側に回り込んだ直後にそれをやってくれたり、また名前を呼んだら天井を掘り進んで現れてくれたりと、なにが出来て何が出来ないのかが予期しにくい。更には「物語の都合のために失敗することが強制されている」というのが爽快感を損なっているのではと思った。これではイベントが進行することでムービーが自動で再生されるゲームとあまり差がない。よりシームレスになっただけだ。その手のゲームは嫌いでは無いが、本作に期待するものとは違っていた。
- ただこれに関してはコンセプト上仕方ないのかなとも思っている。過去作の主人公たちと比較して超人度で劣る少年が(十分超人だったが)、人間の力ではどうしようもない場面を、人を超える怪物に頼って進んでいく。これはそういうゲームなのだ。その為に「思い通りに動かせないパートナー」、そして「プレイヤーの操作だけでは進行できない場面」を随所に設ける必要があった。そしてそれは実際に少年(プレイヤー)とトリコの絆を強化することに繋がっていた。トリコかわいい。ただ、もっとやりようがあったのではと思えてならないのだ。
以上が『トリコ』をプレイして思ったことだ。あと付け加えるなら、ヒントをくれる天の声について。足りない頭を使って考えて、「あ、なるほど」と思った直後にヒントが流れたりするので、「今やろうと思ってたし!」という、宿題をやれと親に怒られた小学生みたいな気持ちになってしまうのがちょっと辛かった。かといって下らない勘違いで詰まった時に、「なんでここナレーションだんまりなんだよ!」みたいに思ってしまうので、まったく勝手なものである。じゃ、二週目行ってきます。
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