「もしかして……私のファン?」
「はい。素敵だと思います」
美しい会話だと思いませんか。「自分のことを好きになって貰えるとうれしい」。ともすれば謙遜こそ美徳とされる今日日、ここまでストレートに自分への好意を尋ね、喜べることも少なくってきたと思います。「美味しいものを食べてこその人生」という言葉からも分かる通り、『けものフレンズ』というアニメは、全編に渡って一つの事柄を貫いています。「生きるっていうのは、このくらいのことでいいんだよ」と。
単純に言い表してしまえば、人間賛歌のアニメなんですよね。けものだけでは乗り越えられない困難を、ヒトの工夫で踏破する。このカバンちゃんだけが持つ「智慧」という特性が確立されている点が、まずこのアニメの素晴らしいところ。言い方は悪いですが、サーバルちゃんがいなくても話自体は成立するんですね。その証拠として、三話の「こうざん」で彼女は一旦離脱してしまう。代わりにトキとアルパカが出てきて、彼女たちの悩みを解決に導く訳なんですけど、かばんちゃんは如何なる状況でも、隣に誰がいようといなかろうと、一計を案じて物語を進行させることができるんです。この「どんなフレンズに対しても『ヒト』であることができる」という能力。状況に左右されない強固な役割。「様式」が持つパワー。『交換できない』幸せ。これこそ「主人公」が有する最強の特性です。ここがしっかりしているということは、つまりどんな物語なのかが分かりやすいということ。『けものフレンズ』は、分かりやすいから面白いんです。
そして必要ではないとか言ってしまったんですけど、やっぱりサーバルちゃんがいないと始まらない。いわゆるバディ役です。にぎやかし担当であり、カバンちゃんのサポート役。何より純粋にいい子。かわいい。まあいい子じゃなくてかわいくない子なんて出てこないアニメなんですけどね。いつもカバンちゃんの横にいて、カバンちゃんの手が届かない場所に手を伸ばして、カバンちゃんには出来ないリアクションをする。「見たこともない場所に行く」というワクワク。これを視聴者と同じ目線に立つカバンちゃんだけではなく、パーク側のキャラクターであるサーバルちゃんにも共有してもらうことで、作劇の深みが増すんですね。一人旅もいいものですが、一緒に喜んでくれる仲間というのも素敵な花。他にも深読みしたくなるようなバックボーン、よくできた BGM、そしてセリフ回しのセンスといい、観ている側が知らず知らずの内に引き込まれてしまうような描写や小道具に手を抜かない。達人は難しいことを簡単そうにやると言うものですが、『けものフレンズ』はそんなアニメだと思います。
が、上記二つはあくまで『けものフレンズ』を良作たらしめる骨組みでしかありません。本当の本当に恐ろしいのは、このアニメが持つ「まぶしさ」です。毎回、カバンちゃんは智慧を発揮して困難を乗り越えていくんですが、観ている側は「すごーい」と息巻き、そして登場するヒトの文化・有能さに感心する訳です。しかし同時に、自分であればきっとカバンちゃんのように振るまえないであろうことを突き付けられます。本当にささやかに、胸をチクリと刺してくる。そして極め付けが、 5 話「こはん」のラスト。カバンちゃんを評しての「良い動物に違いない」という言葉。カバンちゃんはそれを嬉しそうに受け止めますが、何とも複雑な気持ちにさせられる一幕です。なぜでしょう。作中のどんなフレンズも、ヒトの薄暗い部分など指摘していないというのに、この奇妙な後ろめたさはなんなのでしょう。このアニメを評してよく「闇が深い」という言葉が用いられますが、逆だと思います。闇が深いのは観ている側です。ヒトではない、しかしヒトの似姿を取るフレンズたちが、ヒトの文化の残滓と戯れ、幸せそうに生きている。そんな様子を眺めることで、ヒトという総体が持つ汚い部分とついつい比較してしまう。自分が大なり小なり薄暗い場所に身を浸しているのだという気持ちが、フレンズたちの生き方をまぶしく映すのです。『けものフレンズ』は、そういった「まぶしさ」の演出が酷く上手い。「観ている側に観ている以上のことを考えさせる」技巧が優れており、何よりもそれを押しつけがましくなく、さりげにやってのける手腕がある。『けものフレンズ』が観ている者の胸を打つ根源的な理由は、その辺にあるんじゃないかなあと思っています。うーん、マジェスティック。
「すごい」「たのしい」。ヒトの人生はそれだけで完結できるほどシンプルに出来ていないのでしょう。それは仕方がないことであり、しかしヒトらしさでもあります。ならばせめて、フレンズたちの生き方を「まぶしい」と感じた、その心を大切にしていきたいものです。ヒトは皆、フレンズなんだぜ……。