結論として、この記事には「言ってることが難しくてわかんないよー」という泣き言が書いてあります。
ボヘミアン・ラプソディー。既存の版権作品でやってくれたら良かったのに、という野暮は止すとして、一点だけ気になることがあります。あれはいつのことだったか。
小学校の時に、その日の新聞の記事で気になったものを見繕って、ホームルームの時間に出席番号順に毎日、二人ずつくらいが皆の前で発表するという時間がありました。で、そんなもん皆やりたくないので、やっぱりやる気の無い子は「忘れました」で済ませようとするんですが、結構おっかない先生だったので、まあ結局はちゃんと用意するようになるんですよ。けど要領の良い子ばかりではないので、新聞記事をそのまま切り取っての音読に走る訳ですね。そうやって音読で済ませる子が何人か続いた辺りで先生が言うわけです。「新聞の記事っていうのは、読んで聞かせるようにできていない」と。新聞記事の言い回しは「読む」ためのものであって、それをそのまま口頭で伝えても上手くいかないぞと、そういうことなんですね。だからこのホームルームは、書いてあることの要点をまとめて、更に人に話して理解させる「朗読」に翻訳させることで国語力を養うという狙いがあった訳です。幼心に得心がいったのか、今でもあの授業のことを覚えています。
と、いうようなことを『Re:CREATORS』を観てて思い出しました。頭の良いキャラが難しい言葉を使うのは良い。しかし難解なのと分かりづらいのは違うというか、少なくとも表現の場においては明確に区別すべきだと考えます。台詞の内容は理解できます。しかし多少努力して意訳しながら聞く必要がある。それでは疲れてしまうし、理解を強いられる言い回しというのは、案外印象に残らないものなのです。