ACID BAKERY

ABout | Blotter | Text | Illust

『ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風』第 16 話「偉大なる死(ザ・グレイトフル・デッド) その 2」

この台詞を聴くため、このシーンを観るための「待望」というものが、原作付きアニメには存在する。『ジョジョ』は毎回そうかもしれないが、五部においての「指折り」を挙げるなら、やはり今回の話だと思う。

あまり派手でない、ささやかな能力こそ使いこなした時に真の恐ろしさを発揮する。そういうのはたぶん荒木先生のツボだと思うので、だからこそ覚悟に目覚めたペッシは強かった。強くなる資質を与えられていたと言っていい。だが哀しいかな、最後の最後、ペッシはゲスに堕ちてしまった。ここら辺物議があると思う。ペッシの行動は「敵」として間違ったものではないんじゃないかと。しかしながら彼の行動は行動の「先」にあるものではなく、ただ敵意と殺意を満たす為だけのものに過ぎなかった。結果として仲間の為になると言っても、たぶんペッシの本心はそこに無い。ペッシはあくまでブチャラティを絶望させたかっただけだ。惨めにあがこうと仲間の為に行動したエシディシと違うのは、その心根の部分だろう。『ジョジョ』で描かれるのは、その属性が悪だろうと「前向き」に生きる者たちへの賛美だ。これぞ「人間賛歌」であり、その大原則に反したからこそペッシは負けた。ブチャラティの「何をやったって、しくじるもんなのさ。ゲス野郎はな」とはそういう意味。プロシュートの覚悟を「言葉」でなく「心」で理解したペッシは、しかしそのつもりになっていただけだったのかもしれない。そういう目で見ると、ラスト、死せるプロシュートの前で佇むブチャラティの姿がどこか印象的だ。単に携帯電話の存在に気づく前振りなのかもしれないが、覚悟を競いあった二人の男の決着の絵に見えるような気がする。

さてトリッシュがスタンド使いであることが判明した。判明したが、このシーンはトリッシュの能力と関係ないし、父親であるボスの能力の伏線にもなってない。何だったんだろうね! ……強いていうなら、発現したての能力故にその像があやふやだったんじゃないかと理屈付けられるかもしれない。たぶん、彼女の恐怖や対抗心が原始的なエネルギーとして発露しただけだったんじゃないだろうか。

スポンサーリンク