「一つのシーンに複数の意味を込める」のは作劇上重要なことらしい。荒木先生も著作で言っていた。今回で言えば角砂糖のシーンなどが該当するだろう。これは角砂糖をいっぱい食べた忠犬がよしよしされるだけのシーンではない。セッコの身体能力の描写でもあり、カビを操るチョコラータを後衛に置いてセッコが前衛を行うという今後の展開の示唆にもなっている。ただの奇抜なキャラ立てシーンではないのだ。些細なことかもしれないが、こういうちょっとした仕事を大事にしていきたい。
そんな訳で前回がチョコラータの能力お目見えなら、今回はそれを踏まえてのセッコお目見えである。例えるなら地形に状態異常効果が盛り込まれたボス戦と言ったところだろうか。身体の位置を下げてはいけない状態で敵の襲撃を捌かなくてはならないし、そうでなくともセッコの「オアシス」は強敵だった。地面を軟化させ、自身も相手も潜らせることができる。特に後者がえげつない。「グリーン・ディ」との相性としてはこれ以上ないだろう。
最中、ブチャラティはセッコを撃退する訳だが、ここで「グリーン・ディ」がブチャラティの肉体を苗床としない事が発覚する。こうなるともう勿体着けないのがこの作品だ。ブチャラティは既に死んでいた。ディアボロに身体を貫かれて絶命し、「ゴールド・E」から供給された生命エネルギーだけで動いている。ジョルノでさえ汗が止まらない。にも拘わらず、死んだ当人の何と穏やかなことか。
死んだものはどんなスタンド能力だろうと戻せない。仗助もジョルノもある意味生命を扱う能力を持ち得ている分、特にその残酷な現実を突きつけられる。皮肉なのは、絶対に取り戻せないものを取り戻すことができる力が主人公以外にこそ付与される点だ。四部の時は吉良の「バイツァ・ダスト」がそうであったように、五部ではジョルノの父親である DIO に死者蘇生の力は与えられていた。生死の原則を歪ませるのきっと「悪」なのだろう。だから「正」に属する主人公は決してその力を持ちえないのである。
そんな感傷に浸る間もなく、走行する車に何かが投げつけられた。ウィルソン・フィリップス上院議員ではない。チョコラータたちが空から死体を投てきしたのだ。これは苗床。故に街中へとカビは蔓延していく。手段を選ばないのではない、むしろ嬉々としてやっている。ブチャラティが自身に残されたほんのわずかな「生命力」の話をした直後にこれだ。そりゃジョルノも怒るというもの。
敵は最悪。ここで仕留めるしかないだろう。射程の外側にいるチョコラータのヘリを、「ピストルズ」と「ゴールド・E」のコンボで足止める。対して地中のセッコはブチャラティが。ここのジョルノとブチャラティの目線のみの伝心は何度観ても良い。ブチャラティへの信頼と共に、彼が死者だという現実をジョルノが受け入れたシーンでもあるのだ。一つのシーンに複数の意味を込める。何と丁寧で熱い仕事だろうか。