ポップコーンムービー、『岸辺露伴は動かない 懺悔室』
2025.06.08
漫画家・岸辺露伴はヴェネツィアの教会で、仮面を被った男の恐ろしい懺悔を聞く。それは誤って浮浪者を殺したことでかけられた「幸せの絶頂の時に“絶望”を味わう」呪いの告白だった。 幸福から必死に逃れようと生きてきた男は、ある日無邪気に遊ぶ娘を見て「心からの幸せ」を感じてしまう。 その瞬間、死んだ筈の浮浪者が現れ、ポップコーンを使った試練に挑まされる。 「ポップコーンを投げて3回続けて口でキャッチできたら俺の呪いは消える。しかし失敗したら最大の絶望を受け入れろ…」。 奇妙な告白にのめり込む露伴は、相手を本にして人の記憶や体験を読むことができる特殊能力を使ってしまう…。 やがて自身にも「幸福になる呪い」が襲いかかっている事に気付く。
あらすじ - 公式サイトより
ヴェネツィアは美しい。
観ました。事前に想像していたよりは楽しかった、という感想です。というのも、正直このドラマシリーズに関しては「露伴(高橋一生)が出ているシーンだけ面白い」という感想を持っており、じゃあ原作『懺悔室』はマジで露伴が全然動かない(登場しない)し、ヤベーじゃん、寝ちゃうかも、と思っていたんですが……案外大丈夫でした。良かった~。
原作既読者で観ていない方の為に言うと、概ね原作通りではあります。原作ではあのどんでん返しの後に悪霊が「今度はお前の娘が幸せの絶頂を迎えた時に迎えに来る」と呪いの言葉を吐いて終わりましたが、劇場版ではこの、宣言されていた「娘の幸せの絶頂と顛末」までが描かれます。原作の範疇から大きく逸脱せず、壊さない点が評価されるこのドラマシリーズですが、今作も上手いことやったもんだ。
で、感想なんですが、上で言ってしまった通り退屈はしなかったなという感じ。娘(マリア)主体のしっとりとしたシーンではちょっと舟を漕ぎそうになったものの、登場人物の奇人比率を高める力技で退屈さを晴らしてくれたし、あの短くまとまった原作に付け足した部分も蛇足と思わせない仕上がりでした。 とはいえ退屈しなかったから OK と、採点基準は別に高くないのであり、まあ、メチャメチャ出来が良かったかと言われると、やっぱり原作のまま、短尺で構成してくれるのがベストだったかなというのが正直なところでございます。
原作の、突如始まる怨霊との「ポップコーン・キャッチ・バトル」。つっても、まあ勝ったからここで告解してるんだろうし……負けた!? 死んだ!? 生きてた! の短くまとまったインパクトの強さに、付け足された後半の展開は全く勝てていない。何もインパクトが無きゃ駄目と言ってるわけではないのですが、前半と後半での怨霊の立ち居振る舞いに齟齬を感じる。
荒木先生はルールを重んじます。公平さはルール。ルールこそパワーである。ポップコーン・キャッチ・バトルは、恨みを持つ怨霊の立場からしても、一方的な暴力は許されるのか、この報復は正当なものなのか、理不尽のように見えてもこれが運命なら仕方ないですよねェ!? それを天に采配して貰うために必要な「問い」であったのであり、だとすると後半戦における「娘の幸福の絶頂! 即死!」は、なんかちょっと話が違うじゃん。マリアにもチャンスをあげなさいよ。
持って行きたい結末のために話の筋を歪めて、或いはテーマを希釈しているような感覚があり、それがちょっと深く刺さってこなかった理由かなと思います。
いま思いつきましたが、せっかく今回劇場版ということでポップコーンを摘まんでいる観客もいたのだろうし、そんなシチュエーションを活かした第二回「ポップコーン・バトル」を開催してくれても面白かったかもしれない。
『ジョジョ』っぽくしよう、という意図は汲み取れるんですよ。例えば終盤唐突に始まったお父さんと露伴のヘンテコ頭脳戦はスタンドバトル的な駆け引きがやりたかったんだなと笑ってしまったし、ラストは「邪悪な人間は死ぬよりつも辛いメに遭いながら生き続けなければならない」というカーズ・ディアボロを思わせる顛末です(考えてみれば、曲がりなりにも娘が父親の犠牲になるという構図はトリッシュ的ではある)。そして「今は死ぬ運命じゃないから何をしても死なない」のは、スコリッピの「ローリング・ストーン(ズ)」的。こういうところが退屈せずに済んだ要因ではあるんですが、それは「原作愛」、明け透けに言えば「場をもたせよう」という努力に対する評価であって、作劇として巧妙だったかと言われれば、やはり終始迂遠でチグハグな印象が強かった。
偽装死にしたってすぐ明るみになるだろ! その場合は父親の絶望の処理って無効になるのでは? それとも娘さんはこれから先、社会的に死んだまま誰にも正体を明かさず生き続けるんですか? ディアボロの誕生秘話??
マリアは父親を憎んでいたわけでもないだろうし、事が終わった後に精神的にズタボロになっている父親を今後幸福の中黙認し続けるんですか? そんなことある?
そこらへんの杜撰さへの疑念が尽きないですし、まあいいかで流すにはドラマにパワーが足りない。余韻が落ち着き過ぎている。
いつだったかの『JOJOmenon』だったと思いますが、荒木先生曰く『ジョジョ』は最初から第三部までを構想していて、要は先祖の因縁である「DIO」という呪いが、直接関係ないはずの「現在」の自分に襲い掛かってくる恐怖を描きたかったそうです。劇場版『懺悔室』はまさしくそこにフォーカスできていたのだから、父親の罪によって自分に襲い掛かってくる呪いへと果敢に立ち向かうマリアの姿を描いても良かったはず。ただまあ、さすがに原作から外れ過ぎているか。
しかし原作通りという観点から見ても疑念はありまして、ラストの、失意に苛まれ身を引きずるようにして歩き去る父の背中に向けた露伴の「悪人には違いないが尊敬する」という総括は、確かに原作通りではあるものの、それだけにかなりズレている気がするんですよね。
原作はどんな手を使っても強かに生きるその様に向けてでしたが、劇場版に関しては既に決着がついている。「戦い続ける者」に宿るエネルギーに向けた尊敬の念を、「敗れ去った者」に対しても同じように露伴は抱くでしょうか。
多少の憐憫くらいは抱くかもしれませんが、「敬意」はちょっと暢気し過ぎてるんじゃないかなあ。
原作に敬意を払い、重んじる。その志は確かに感じたものの、それだけに原作との乖離を強く感じる結末だったかなというのが、感想としてのまとめになります。まあ、諸々置いといて良作だったと思いますよ。
というわけで次回の劇場版『望月家のお月見』でお会いしましょう。