……とにかくお腹が減っていた。
教室から学食が遠すぎるのだ。授業時間が少しでもはみ出した日は、食いっぱぐれることを覚悟しないといけない。だから毎日十分な量のお弁当を作らないといけないというのに、今朝の私はなぜだか目覚ましを眠りながら止めてしまった。いやそれを言うなら、と朝方のわたしが反論する。「前日に作っておけば良かったんじゃないでしょーか」 異議あり、寝る前のわたしが手を挙げる。「今食べる訳でもないごはんなんか、作りたくない!」 確かに。朝方のわたしが頷いた。今のわたしも頷きかけて、我に返る。こんな一人芝居をやっている場合じゃない。違う、逆だ。自分を誤魔化していないと、空腹で倒れそうなんだ。うう、せめて午後に体育の授業さえなければ。「確かにね」、と息も絶え絶えに校庭を走っていた時の私が答えた。
やばい。頭がおかしくなる。家まで保つか? 無理。よし、もうどこでもいい。目に入った店に飛び込んでしまえ。と、決意したはいいものの問題が二つある。まず手持ちが少ない。中学生の身の上では仕方ないのだけど、これでどこでもいいという訳にはいかなくなった。そしてもう一つの問題。
ここ、どこ?
言いたくないがわたしは方向音痴だ。にも拘わらず当て所なく歩くのが趣味みたいなところがあって、気づけば知らない場所で右往左往していることはよくある。今日も空腹に支配されてふらっとやってしまったみたいだ。治したいなぁ、この癖。
わたしの目の前には「すき屋」があった。吸い寄せられるようにここに立っていた。安くて量が食べられて、どの土地で食べても同じ味。……でもなあ。誤解が無いように言っておくが、「すき屋」は大好きだ。ついでに言うなら「吉野家」も「松屋」も大好物です。でも、だからこそ「ここでいいか」という感覚で入りたくないのだ。「どこでもいい」と宣った手前あれだが、こう、ビビッとくるような何かが……ん?
「五○○円定食」
すき屋の横に年季の入った定食屋。そこに羅列されていた文字列を眺めて瞬きを幾度か。次の瞬間、わたしは扉に手をかけていた。そうか。ここに招かれていたのか。
×
店内は思ったより綺麗だった。お客さんは六人。半分が中年の方で、半分はわたしと同じくらいの年の男子学生だ。あの制服は見覚えがあるが、他校の事情に明るくないので詳しくは分からない。その全員が、わたしが店に入るや否や、こちらを見た。
「……」 何となく息を止めてしまう。
「いらっしゃい」と店員さん、六十前後くらいのおばさんが声をかけてくれて、私は会釈を返した。気づけばこちらに視線を投げたお客さんたちは、それぞれの食事に戻っていた。ほっと息を吐く。落ち着け。空腹に飲まれるな。店員さんに案内されるまま、角の四人席に座る。角って落ち着くよね。
「ご注文は?」
そう尋ねられて、わたしは反射的に「五○○円定食ください」と答えた。店員さんはにっこり笑って、「どれにします?」と聞いてきた。
「え、どれ?」
きょとんとするわたしに、店員さんはわたしの真後ろを手で示した。振り返る。「五○○円定食」と大きく書かれた黄色い紙に、「A」「B」「C」と箇条書きされていて、それぞれに内容が細かく書かれていた。しまった、先走ってしまった。嫌な汗をかきながら、わたしは速読した。
A:豚のショウガ焼き B:鶏の唐揚げ C:アジフライ ※ごはん大盛り無料
「……エ……Bで」
「B定食ね。ついてくる小鉢はそこから選べます」
横の貼り紙を示すおばさん。なるほど、こういうのもあるのね。今度は慌てない。同じ鉄は踏まないのがイマドキの女子中学生だ。
「ポテトサラダと、肉じゃがください。ごはんは、大盛りでお願いします」
「お芋好きなのねぇ」
「へ? あ……!」
本当だ! 注文が! 芋まみれ! でも今更訂正するのも何なので、「幼少のころより無類の芋好きで」と答えておいた。近くに座っていた男子学生たちが横を向いて吹き出したが、偶然だろう。そうだと言ってくれ。おばさんが朗らかに笑った。
「良かったわね。お味噌汁の具、ジャガイモよ」
×
注文し終えて、ようやくゆったりと腰を落ち着ける。改めて眺めると、いい雰囲気のお店だ。モダン、というやつかな。水を一口飲んで、横目で男子たちを盗み見る。三人のうち、一人はカレーだ。美味しそうだけど、今は気分じゃないもんね。おや、後の二人は五○○円定食の……AとCだ。被っていない偶然に、なぜかラッキーなんて思ってしまう傍ら、まさかBはハズレなのでは、とか考えてしまう小心者。視線を移す。中年のおじさんたちは、それぞれ関わりが無いようで、みんな思い思いのものを食べながら、しかし共通してビールを飲んでいた。お酒ってこんな時間から飲んでいいんだ。
そうやって観察していると、木戸を開けておばさんが歩いてきた。両手にはお盆。わたしのためのお盆。「お待たせしました」の声に小躍りしそうになる自分を抑えて、会釈。あくまで冷静に。しかし実際に五○○円定食を目の当たりにして、小さくではあるが、吐息が漏れるのを我慢できなかった。
不安になって貼り紙を確認する。……間違いない。意図せぬオプションをつけてしまったわけではなかった。でもこれで五○○円きっかりって、お店大丈夫なのかな。余計なお世話か。
「芋定食、じゃなかった。B定食、いただきます」
手を合わせて、割り箸をパキリ。まずは、うー、ええい焦るな。まずは味噌汁だ。一口。
「……」
もう一口。今度は慌てて白米で追いかけた。うん。ジャガイモが溶けてとろみのついた味噌汁と白米の行き来を数回続けてから、次は小鉢のポテトサラダを箸で割る。お芋の砕け方がバラバラで、手作りって感じ。マヨネーズほどほど。胡椒はたっぷりめに入ってるけど、それでも素朴なポテト味。わたしは卓上の醤油に手を伸ばして、ポテトサラダに垂らした。サラダをおかず化する、背徳的な手法だ。水を一口。お次は肉じゃが。うん、染みてる。とんだ杞憂だった。芋ってやつはこんなに表情豊かなんだ。幸福な信頼感の中で、わたしはメインディッシュの唐揚げに箸を延ばした。嬉しい重さ。かぶりつく。油の熱さに慌てながら噛みちぎって、堪らずごはんをかき込んだ。うん、うん。そして味噌汁。再度ごはん。満たされていく。
×
「ごちそうさまでした」
余すところなく頂いた。おなかいっぱいだ。正直動きたくないけど、暗くなる前に帰らないと。財布を取りだして、改めて五○○円だと思い出す。安さに戦慄していると、入店があった。学生、それも既にいた男子たちと同じ制服で、顔見知りらしく、お互い照れくさそうに笑っていた。店員のおばさんにあいさつする様子を見ると常連らしい。そうか、学生御用達の店なんだ。だからこんなにボリューミーで安いんだ。
いい店だなあ、と立ち上がった時、また入店があった。背格好から判断するに、男。ニット帽を被っていて、マスクとサングラスで顔を覆っている。風貌を目で追ってしまう。男は学生たちの横をすり抜け、おばさんの目の前に立った。一拍おいて、おばさんが小さく悲鳴を上げるのを聞いた。男はおばさんに包丁を突きつけていた。
「お金ください」
マスク越しのくぐもった声。固まって動けないおばさん。聞こえなかったと判断したのか、男はもう一度、少し大きめの声で同じ言葉を発した。そこでようやく、周りも事情を察したのだろう。店の中は冷たい沈黙と緊張に包まれ、テレビだけが言葉を発している。
なんだこいつ。こんなにお客がいる店に強盗に入ってきて。人がいないと盗るお金も無いと思ったのかな? わたしは男に向かってまっすぐ歩いていく。それをみた周囲のお客たちがぎょっとした目をした。
「あの」
声をかけると男が振り返る。おばさんがか細い声で「だめよ」と首を横に振った。構わずわたしは言った。
「包丁を持っていいのはキッチンの中だけだと思います」
改めて時が止まったような感覚。まずい、そんなつもりなかったけど、場違いなこと言っちゃったかな。赤面しかけるこちらに、男は舌打ちして、何も持っていない方の手で掴みかかってきた。わたしは合わせて一歩踏みだし、左ジャブで男の顎先を打ち抜く。男は膝から崩れ落ちた。わたしはその様子を確認すると、ジャブの中に握り込んでいたお金を、呆気に取られるおばさんへと差し出す。
「五○○円で良いんですよね?」
おばさんは何か言おうとして、でもこくこくと頷くだけだ。よかった。おばさんの手に五○○円を握らせて頭を下げた。
「ごちそうさまでした。すぐに警察を呼んだ方がいいと思います」
顔を見合わせるお客たちに、横たわる男をしっかり拘束しておくようにと言い含めて、わたしは店を出た。
はぁー、満足。もうお腹が空いてた頃のことを思い出せない。感慨に浸りつつ、数メートル歩いたところでなんとなく振り返る。おばさんやお客たちが店から顔を出してこっちを眺めていた。
×
それにしてもいいお店だった。また行きたいけど、その前に解決しなければならない問題がある。
ここ、どこ。
あなた、どうやって歩いてきたの? と、さっきまで空腹に喘いでいた自分に問いかけてみた。答えはなかった。