「司」
体を揺すられて目が覚める。視界が定まらない。目玉の奥が熱い。体だるい。数度瞬きすると、目の前で顔をのぞき込んでいる鈴ちゃんの輪郭がはっきりしてきた。鈴ちゃん。鈴ちゃん?
……え、なんだっけ。なんで?
鈴ちゃんが「おじゃましてます」と言うので、わたしは「はい」と答えた。鈴ちゃんはわたしの額や頬を触って頷いた。「大分下がったねぇ」
「……」
あー……思い出してきた。わたくしまず熱を出しまして。学校にはもちろん行けなかったんですけども。病院に行く気にもならなくて、辛くて苦しくて、何とか鈴ちゃんにヘルプのメールを送ったんだった。そういえば人が来てドアを開けた記憶があるなあ。でもそこから全然覚えがない。大変な迷惑をかけてしまったらしい。恥ずかしいやら恐ろしいやらで呆然としていると、鈴ちゃんは笑顔で言った。
「ごはん食べられる?」
わたしは精神を研ぎ澄ませて、自分の食欲を探る。どうだ、食べられそうか? きゅう、と胃袋が縮こまる感覚がした。
「……食べる」
「はーい」と応えて、鈴ちゃんは台所へと消えていった。言われてみれば、良い匂いがする。言われて気づくだなんて不覚。弱ってるなあ。
×
「お待ちどうさま」
「買い物に行こうと思ったけど、今ある材料で何とかなりそうだったから勝手に使っちゃったよ」
「だいじょうぶ。ありがとう」
「ヤケドしないようにね」
「うん……前から思ってたんだけどさ」
「ん?」
「鍋焼きうどんって、焼いてないよね」
「鍋を焼いてる」
「……。いただきます」
「どうぞー」
しかし……ぐっつぐつだ。土鍋なんてなんとなく買って使ってなかったけど、こうなりますか。全力で風邪を追い出せというメッセージを感じる。よーし。わたしは出汁香るマグマへ箸を突きたてた。うどんを数本、まずは取り皿へと移す。息を吹きかけると、湯気が晴れた。少し覚悟してから、わたしはうどんに口をつける。ぎゃあ、唇が!
ひぃ、ひぃ。負けるか。更に息を吹いて冷却を試みる。なんとかいけそうだったのですする。なんとか、なんとかいけそう。息を吹き付けて、すする。その繰り返し。わざわざ熱したものを冷ますなんて、なんか矛盾だ。熱の塊が体の中へと入っていく。うああ食道が焼ける。でも、でも。枷が外れたように、わたしはそこから一心不乱に、灼熱の滋養を体に取り入れていった。
摩り下ろしたのではなく、刻まれたショウガが辛い。おたまで出汁を飲むと、土鍋で煮込まれているもの全ての味がするようだった。まあ、その、実のところ、味なんてよくわからないんだけど。熱いし、たぶん舌も鈍ってる。鼻も効かない。息苦しい。でも止まらない。
「あちー」
汗が吹き出る。鼻水も。タオルを目線で探すと、鈴ちゃんがティッシュで鼻をぬぐってくれた。それからタオルで顔の汗も拭いてくれる。至れり尽くせり。情けない限り。わたしは搾り出すようにお礼を言って、また食事を再開した。鈴ちゃんが「無理して食べちゃダメだよ」と言ったが、わたしは頷くだけ頷いて、食事の勢いを殺さなかった。だって体が食べろと命令してくるんだもの。
あちー。
×
「ごちそうさまでした」
食べ終えた頃には汗だくだった。こういう時、食事はスポーツだ。おぼんを回収した鈴ちゃんは言った。「薬飲んだら、着替えちゃいな。そこに着替えとタオル出しておいたから。出来る?」
わたしは頷いてから、「お風呂入りたい」と呟いた。凄まじく汗臭い。
「体冷やさなきゃ入っても大丈夫だよ。どうする? 沸かす?」
「やめとく……」
「うん、そうしな。じゃあわたし、これ洗ったら帰るからね」
え、帰っちゃうの、と言い掛けて、わたしは口を噤んだ。恥ずかしい。甘えん坊か。一人身悶えるわたしに、鈴ちゃんは何でもない風に言う。
「病院行かないといけないからね」
「あ、そっか……」
お母さんのところか。うわあ、わたし、ほんとに馬鹿だ。
「ごめんね、鈴ちゃん」
昔から、いつもいつも。
「ほんとだよ。早く元気になりな」
笑いながら台所へ去っていく鈴ちゃんを見送って、わたしは市販の風邪薬を水で流し込んだ。絶対治してやる。
×
その後、わたしは深夜に目を覚ました。熱は夜に上がるというが、まったくそんな兆候は無かった。どっさりとかいた汗と一緒に、きっと悪い菌が出て行ってくれたのだ。鍋焼きうどんの、いや、鈴ちゃんの力だろう。わたしは体だけ軽く拭いて、もう一度着替えてから、鈴ちゃんが持って来てくれたオレンジ(カット済み)を食べて、また一度寝た。翌日にはもう、嘘みたいに良くなっていた。
でも土鍋って、あんなに良いものだったんだなぁ。今夜は湯豆腐でもやろうかな。