セキロ・アフター・ノー・ディフィート


2026.09.13

はじめに

『SEKIRO: NO DEFEAT』をようやく観てきました。二回目を。公開初日に観てたのでもう少し早くこの文章は書けたはずなんですが、記憶を頼りにキーボードを叩いてる内に、それが本当に存在した『NO DEFEAT』なのか、自分の中の解釈に合わせて頭の中で生成した『脳 DEFEAT』なのか区別がつかなくなり、虚実を明らかにするべく二回目に挑んできた次第。

ちなみに二回行ったのにパンフレット買えてません。マジなの?

さて以前『NO DEFEAT』公開に際し、トレーラーを眺めながら展開の予想をしてみました。改めてどれだけ的を外したかについて触れる気はありませんが、代わりに今回は軽く感想文などを書いていきたいと思います。二回観てきた身の上ですし、結論として楽しめたんですが、同時に「手放しでは褒められないな」というのが、取りあえずの総評です。

じゃあ以下、細かくやっていきましょう。

あと大事なこととして、ここからのテキストは、原作全てのエンディングを見た人間が書いているので、「原作知らないけど映画は観た」「まだ周回途中」という人は要らないネタバレを喰らうかもしれません。原作ゲームを途中まで進めている方はお読みにならないことを推奨致します。

急いては死ぬるゾ(クレしんのサブタイ)。

あらすじ

時は戦国。雪深い峠を越えた先に、「葦名」という国がある。

狼は、葦名の戦場で拾われ、忍の技を仕込まれた熟達の忍びである。

狼が仕える少年・九郎は、「竜胤」と呼ばれる特別な血を引く一族の末裔。

二人は寄る辺なき孤独な主従であった。

九郎の竜胤の血は、人を不死に変える力を持つ。

それを狙う葦名の侍から逃れる狼と九郎だったが、そのさなか竜胤が不死の見返りに人々に「竜咳」という致死の病をもたらしていることを知る。

竜咳を治める方法を探す九郎は、自らの命を代償にそれがなせることを知り、

苦悩の末に竜胤断ちを決意する。

一方、九郎が隠していた覚悟を知った狼は、

独り九郎の運命を変えるべく苦難に満ちた戦いへ――

公式サイトより

いま公式のあらすじ読み返して思いましたけど、

>独り九郎の運命を変えるべく苦難に満ちた戦いへ――

そう……でしたっけ? いや内心という話であればそりゃそうだったのでしょうが、主の生存という部分について狼が思い悩むパートはほぼ無かったと思います。そうした上で言わせてもらうと、

この辺、がっつり削りましたね! そしてあらすじとの微妙な齟齬を見るに、まさかもっと長尺のシリーズ作品だったものを無理やり劇場アニメ尺に縮めたのか……?

というのは適当な憶測です。改めて、観た範囲についてやって参りましょう。

感想文

「生きることへの絶望なしに、生きることへの愛はない」

まず冒頭のアルベール・カミュからの引用ですが、正直に言うと面食らってしまったというか洒落臭さを感じてしまったというか。和を題材とした物語に西洋文化を重ねる「あえて」の手法は別段珍しくもないですが、「何をするつもりだ?」と、開始早々身構えてしまった。もっとも最後まで観ればきちんと意味はあったわけですが、こちとら気が小せェもんで……。

その他にも『NO DEFEAT』の BGM は(原作の印象に引きずられているだけかもしれませんが)戦国時代を舞台としているにしては少しシンセっぽい曲調で、極めつけとしては終盤の挿入歌に思い切り英語のフレーズが使われていたりと、どうも一貫した「あえて」は感じます。

もしこれらの「あえて」が、戦国を舞台としながらも『SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE』と英字タイトルを与えられた本作に見合うものとして再解釈された結果だとすれば、ハマッていたかはともかくとして、何がやりたかったは分からんでもない。

「都の飯は美味かったか?」

『NO DEFEAT』は、どちらかと言えば原作が持つ時代劇としての側面を引き出したかったのだろうと思っています。

初登場時のエマの、階段を登る際に裾を持ち上げる所作だったり、竜胤の力を確認するため、弦一郎が刀から小刀(小柄)を取り出して御子を斬りつけてみたり、葦名一心の元に報告に参じた配下が、左側に得物を置く(仕える相手、敵意を示さぬ相手には得物を抜き難い右手側に置くことが常とされる。つまり「左」に置くということは……)など、その他戦闘時の手つき、足運びなど、全く知識のない自分から観ても細やかな所作や思惑で溢れていました。詳しい人が観ればもっと楽しめたでしょうね。

ただ言わせて貰えば、細やかさよりも優先して欲しいことはありました。例えば前述した、弦一郎が御子を斬りつけるシーン。要は「傷つけようとして傷つかない → 竜胤すげーっ」の流れである訳ですが、これって原作知らない人は理解できたんでしょうか。それ以上に、既に変若水を飲んで赤目のタフガイに成り果てている弦一郎が、今更御子様の丈夫さを確認して「すげー!」とはならなくない? せめて全力の斬撃を喰らわせて、なお無傷、くらい景気よくやって良かった気はするんですよね。後々に不死斬りで斬られ、御子が初めて血を流すシーンの程よい前振りになったと思います。というか御子が不死斬りでしか傷つかないっていうのも原作を知っているから飲み込めることだと思うんで、単純に分かり難くなっていると思うんですよね。でもアニメで刀から小刀を取り外すシーンって観た事ないので、たぶんこの地味な機能を忠実に描画したいという欲が勝ってしまったのかなと邪推します。

またこの点についてもう少し言及させて頂くなら、梟戦を越えて、御子の手首には縛られた際の痕が痛々しく残っていました。おかしいじゃないですか。尋常の方法では決して傷つかない御子の肌に、拘束の痕は残るのか。きっと「縛られて何の痕もつかない」という不自然さに耐えられなかったのでしょうし、その配慮に感心こそすれ、ここはもう少し考えて欲しかった。

総集編感

本作は明確に章立てされており、合間に「第一幕」「第二幕」「第三幕」と表記されます。この手のチャプター分けはタランティーノ監督あたりが多用するイメージがある。劇中の時間経過を程よく処理するのに有効……ではあると思うんですが、各章冒頭でモノローグが挿し込まれることも手伝い、「総集編感」のようなものを受け取ってしまいました。それ自体に悪印象があるわけではないんですが、感情移入を阻害する効果があるとも思っていて、原作のように過去に行ったり仙郷に向かったりイベントが取っ散らかったものを整理するならともかく、本作とはあまり相性が良くないと考えます。

加えて言うと要所要所で「竜胤」「竜咳」、そして一部台詞が字幕の形で表示されるんですが、タイトルと同様の処理で挿し込まれるので、演出的にメリハリが無い。

やっぱり元々何話かで構成される配信アニメだったりしたんですかね。

主役は狼と御子の二人。

そろそろ内容の話もしていきたい。

『NO DEFEAT』の御子は蝶の飛ぶ様を通して自由を見ます。開けたすすき野、葦名の外へと繋がる道に顔をほころばせる。原作の御子にも当然自由への憧れはあったでしょうが、竜胤が世に与える悪影響と、それを断つことが彼の主題で、「外の世界」はその結果ついてくる副産物でした。

『NO DEFEAT』御子も志は同じくするものの、外の世界への思いは原作よりも強い。印象的なのが中盤のおはぎイベントでぽろりと彼が零した台詞。記憶頼りなので原文ママでは無いことを御許し頂きたいのですが、御子はおはぎの出来栄えに胸を張り、「いつか茶屋をやりたい」と述べます。一方原作では、いつか暇が出来たら「茶屋でも開くか」とのこと。この違いは大きい。

またすすき野での弦一郎戦における明確な改変として、狼の窮地に御子が走り寄り、拾った石で助太刀(助石)を試みます。振り返ってみると、後々の梟戦で刀を投げ渡すシーンの布石になっているとも思えますが、即ち「御子が積極的に物語に介入しようとする」、これこそ原作との最大の相違点であり、大きなテーマでした。

竜胤は大事

第一幕冒頭、竜胤に「不死」の力があるとモノローグで明かしてしまうのは悪手でしょう。「竜胤ってなに?」というフックがここで死んだ一方で、斬った張ったをやっている主役は不死身であると明かしてしまっており、後に続く緊張感が削がれてしまった。弦一郎戦でせっかく回生のお披露目なのだから、そこで竜胤や不死について開示した方がインパクトは大きかったように思います。

加えて言えば変若水を飲んでいる弦一郎がなぜ竜胤を求めているのか、については一言二言説明を入れても良かった。ここは原作でも明言されていなかったはずですが、「死に難いだけでは内府に勝てない。死して蘇る力が欲しいのだ」と、この程度の意志はせめて明示して良かったはず。敵方が御子を求めるモチベーションが最期まであやふやなままなのは変な話。

というか物語の根幹である竜胤周りの情報の整理があまり上手くやれてないんですよね。源やら桜竜やらバッサリいくのは良いとして、竜胤と雷にどんな関係があるのか、変若水ってなんだ、半兵衛はなぜ死なないのか、あの背景に一瞬映ったでかい蛇は何なんだよ! 手から精米! 葦名には様々な怪異や異端が溢れ、しかしてその源流は竜胤に集約される。その事実に一言二言触れるだけで大分印象は変わるでしょう。

はっきり言うと『NO DEFEAT』においては「御子と狼のどちらを犠牲にする?」という部分だけが厳重に保管されており、その他の設定についてはおざなりになっています。それ自体は良い。繰り返しますがカットするのも問題ない。ですが、カットしなかったものについてはもう少し親切にしてあげて欲しい。よく分からないものを観た時、客は細かい矛盾や結末以外は大抵スルーできてしまうものですが、そこに頼った話作りは少々頂けない。

竜咳に関しても思うところがありまして、『NO DEFEAT』の竜咳は病の果てに罹患者を散華させる、対処不能な病となっていました。恐らく「人返り」エンドで狼が自らの首を切断した際に、体から桜が散っていく様から着想を得たのではないかと推測します。ビジュアル的にもギョッと出来るし、後々の展開の前振りにもなっていて、良い見せ方だったのではないでしょうか。

しかし竜咳の仕様変更は良いとして、凶悪化しているかと言えば別にそんなこともないはずなんですよね。だって原因となる狼が全然死なないから。死んでも蘇るだけの一介の忍びが大きな敵を打ち倒していく本作ですが、『NO DEFEAT』においては、観測範囲では二回しか死なない。目的の為に、何度死しても立ち上がる、その意志の代償を無関係な人々が背負わされる点が竜咳の恐ろしさなのですが、『NO DEFEAT』の隻狼は熟達の極みにあるので、全盛の一心すら死なずに倒せます。じゃあもう誰もこの忍び殺せないだろ。竜咳もこれ以上広がらない。めでたし。

だったら「過去、平田屋敷で契約を結んで以来、『本来は死ぬはずだった狼が生き続けている』ことそのものが常時竜咳蔓延の原因となっており、葦名は少しずつ蝕まれている」くらいにアレンジしておいた方が、不死断ちを目指すモチベーションに同期しやすかったはず。

話の構成に直接関係ない設定が「点」のまま宙に浮いてる。それが『NO DEFEAT』なのだ。

「急いては死ぬるぞ わっぱ!」

なにが?? 鬼刑部のこれは本来 名乗りの途中で攻撃を仕掛けた際のリアクションだったはずですが……。

人が「点」で喋る。それが『NO DEFEAT』なのだ。

雷返し B(ブレイク)

さて第一幕の山場、天守にて。弦一郎戦は原作再現が嬉しいというか、観た事ある技の応酬に原作既プレイヤーはニヤリとできます。

だけど巴の雷を解放してから先、弦一郎のテンションがおかしくなったのは何だったんだ。原作でも、負ったダメージのせいか、変若水のせいか徐々に狂い始めているようには見えましたが、『NO DEFEAT』では随分とサイコっぽくしたものです。何だったんだ。

そして大見所の雷返しですが、して……ましたね。いや、やってましたよ。原作通りに打ち返してこそいないものの、雷を受け止め帯電した刀で斬りつけるという方法で、一応お返し致してはいました。斬撃を喰らった弦一郎が帯電していたので、以て雷返しと言えるはず。

まあ、そうね。原作に無い戦術自体は好感触なのですが、細かいセリフなどの原作回収に拘る傍らで、本作名物と言っていい雷返しをそのままやらなかったのは、ちょっと勿体なかったか。

なぜそのままやらなかったかを考えて見るなら、やはり本作の時代劇としての側面、「殺陣」感を重要視したのかなというのが一つ。雷返しはプレイヤーが操作を行うからこそ映える面は否定できず、ピョンと飛びあがって放たれた雷を、こちらもピョンと飛びあがって打ち返すという、ある種ゲームだからこそ成立する構図を選択できなかったのかもしれません。

もう一個フォローするなら、あれはあれで原作の描写を保護しているとも言えるんですよ。だって原作のムービーシーン(「巴の雷、見せてやろう」)からして、地に足着けた状態で雷を受けているので、ここを拾ったのだと解釈することもできるじゃないですか。なので雷返しをしなかったというよりは、多方の描写の中間を取ったと言えます。言おう。

その上でツッコミを入れるなら、『NO DEFEAT』の弦一郎は、それはもう奇麗な肌をしていて、雷を使い始めてから徐々に焼け焦げていくんですが、それはこの日はじめて雷を使ったことになりませんか。

そもそも接地した状態で雷に打たれればダメージを流せないという話で、だから放つ方も飛びあがって行う……という建前がありながら、『NO DEFEAT』では、あろうことか雷の威力を利用して鎧をパージしてしまい、ここまでやった以上、狼が雷を返したところで大してダメージが通らねえ状況になっているわけで、故に A(アロー)タイプではなく B(ブレイク)タイプの雷返しで対処する羽目になったんです。狼も弦一郎も原作より強ェのが悪ィんだ。

荒れ寺にて

というわけで弦一郎を踏破し、一心への謁見も見えました。

原作ではその後、弦一郎の居ぬ間に天守を拠点にできましたが、『NO DEFEAT』ではそうもいかなくなってしまったので、一行は荒れ寺へ。原作では関わりの無かったキャラクターたちの交わり。醍醐味と言えます。

ほっこりしていいですよね。半兵衛の料理を掻っ込む狼も可愛い。言いたいことがあるとすれば、半兵衛に食事してる人の前で目ヤニをほじくらないで欲しいってことくらい。

死なず半兵衛、なぜ死なぬ

仲良く森の中で作業していた狼たちですが、突如、半兵衛が斬りかかってきます。殺しました。

動かなくなった半兵衛をしばし見つめ作業に戻る狼ですが、死んだはずの男が立ち上がります。ここの狼は必見。

半兵衛は死なない。これも竜胤の影響ですが、『NO DEFEAT』では蟲は描かれず、蟲憑きの名も登場しません。つまり「なぜか死なない人」なんですが、初見の人って弦一郎のように変若水を飲んだ、くらいに解釈したんでしょうか。

繰り返しますが、描写した以上は説明して欲しい。

正気の村とオカミ伝説

フロムゲーでは珍しい、正気の村人たち。ここは原作との大きな変更点でした。葦名という国に住む人々の営みを描くのは重要な仕事だったと思います。

ということで村祭りなんですが、よく聴くと「オカミ」について歌っていましたね。それがオカミ神(竜)についてなのか、宮の淤加美たちについてなのかまでは聴き取れませんでしたが、合間にぴょんぴょんと跳ねる天狗面は、恐らく古の葦名に攻めてきたあやかしを「地に足つけぬ」神業で撃退した使い手、その演舞なのでしょう。要は雷返しの掛け軸の内容がここで出てきているわけです。詳しい事はいずれ有識者が解析してくれるはず。

ごはんはおかず

不死斬りは金剛山 仙峯寺にあり。坊主の群れを越えて、トレーラーでは映っていた猿たちとのバトルはすっ飛ばし、赤の不死斬り「拝涙」を手に入れます。『NO DEFEAT』でその名の意味が明かされる機会はありませんでした。

そして米。こちらも『隻狼』における名物の一つですね。変若水もまた竜胤の一端であり、即ち変若の御子もまた竜胤が生んだ淀みの一つである。しかし生命を歪ませる竜胤はそればかりではなく、このように豊穣を産み出し得るものでもある――変若の御子が自らの湧きあがらせた米を九郎に贈ったのは、そのような含意のもとだと思っていますが、『NO DEFEAT』では変若水について掘り下げていないので、初見の方には灰の代わりに米を出すサイババみたいな受け取られ方をされてしまっているかもしれない。

で、変若の御子、米 出し過ぎ!! おはぎが村人みんなに行き渡ってるのを見て、思わず劇場で口元を覆ってしまった。可能性は色々考えましたが、あの量の米を変若の御子が一人で生産していた方が断然面白いので、そう解釈しておきます。

おはぎ

おはぎイベントです。御子と狼が並んでおはぎを作るシーンなんてずっと観たかったものの一つじゃないですか。あんま忍び義手でおはぎとか握んない方がいいとは思いますが それは置き、おはぎを食べて感嘆の言葉を漏らす忍びに、御子は茶屋を開く夢を語りました。

狼はぎこちなく笑ってみせます。原作の話をするのであれば、「はちきれそうな銭袋」にあるように、狼は感情を表に出すことが極端に苦手、ということでもないんですよね。なのでこのシーンはそれこそ自然と「僅かに笑みをこぼし」、それを見た御子が「おぬしが笑うところを初めてみたぞ」と驚いてみせる、そんなやりとりでも良かった気はしますが、『NO DEFEAT』では、この時点で狼は不死断ちが主を殺すことになると知っているので、少し反応に困ってしまった、そんな見方ができるかもしれません。何にせよ良いシーンだったと思います。

大忍び、襲撃

帰る一行の背後、なんかいきなり村が炎上しました。大忍びの襲撃、平田屋敷の惨劇、その再演と言えます。終始冷静だった狼が、天狗面の男を目の当たりにした時に大粒の汗をかいていたのが印象的。複雑な色を持つ汗でした。

ところで梟が天狗面を着けていたことに関してですが、原作に登場した「葦名の天狗」をここで回収したというのが一つあるでしょう。しかし良く見るとこのお面は村の祭りで使っていたものと同じだったはず。あの村祭りにおける天狗面は、あやかしの神鳴りを、地に足つけぬ神業で跳ね返した使い手を演じていました。それが時を経て、地に足つけぬ忍びの流派技に受け継がれているのだとすれば、梟がそれを被る意味は大きい。忍びである自分は神話の業の継承者であるという自負の現れだったのでしょうね。

そしてそんな男が竜胤の御子を狙い、彼は狼の育ての親でありました。

御子を追う狼が「影は現身(空蝉? 写し身?)」と呟いていましたが、影を忍びと捉えるなら、あそこで「義父(影)の死は偽装だった」と気付いた、そんなところですかね。つまり過去の平田屋敷で狼の義父が死んだかに見えたがその死は謀だったという事実を「影は現身」の一言で初見の人にも完璧に理解させることができるというワケ。無茶を言うんじゃねえ。

ロマンティックは宿らない。

さて原作の一大イベントの一つ、親か主か、選択の時です。修羅に落ちるのか狼!

といったことにはならず、親を絶対としていた狼はこの時、掟の頸木から解き放たれ、心に従うまま御子を救出します。

分かり切っていたことではあるものの、ここはもうちょっと深堀りして欲しかったかな。 原作の狼は「我々」だったから、我々は与えられた選択肢の中から選びました。実際に主を捨てることだって可能です。しかし『NO DEFEAT』の狼は「我々」ではない。その視点で見ると、狼がなぜ絶対である親を裏切って御子を選んだのか、その決定的な根拠が描けていなかったように思います。そこを描く為には梟との出会いから描写する必要があり、まあ尺が足りなかったのでしょうが、ちとドラマとしては弱い。選んで当然の選択肢を選んだだけとも言える。ロマンティックは宿らない。

そうしたことで一旦おはぎイベントに視点を戻すのですが、あそこの狼のリアクションは「旨うございます」より「……うまい」のほうが良かったと思うんですよね。「旨うございました」とは原作のおはぎイベントで口にしているので原作通りではあるんですが、問われての答えではなく、狼自身が自然と零した言葉であるべきだったと思うんです。狼の主への忠誠が、ただ掟に従った結果なのか、それともいつからか心からのものに変わっていったのかは、そういった素朴な感動の積み重ねによって左右されるものだと思うので。

そんな狼の裏切りを瞬時に看破し、梟は倅を組み伏せ、巧みに義手を操り、抜けば死ぬ刀を抜いて見せます。ここは見事でしたね。不死ではないものが不死斬りを抜く手段、そしてあくまでお前は我が傀儡であるという意志表示を一つのシーンで描き切ってみせている。でもこれが「狼が抜いた判定」になるなら、マジックハンドを使って抜いても OK なんだろうか。

御子の血を求める梟は、何とその血を舐めとって見せました。直ですよ、直! いいんですか? こんなことして。三週間限定公開の理由ってこれかも。

しかしここの血の啜りは多分無意味だったとは思うんですが、どうも解せませんね。だって不死断ちについて当事者たちよりも通じていそうだった割に、実際に血を舐めたそれは、正しい契約の形ではありませんでした。もちろん過去に狼と契約した際に御子が自らの血を飲ませたわけはないでしょうから正解は別にあるにしても、変若水程度の意味はあって良さそうですけどね。御子の血自体は「開門」に使用できるので、それを竜胤の契りと混同したのでしょうか。

ともかく一瞬の隙を付き、御子は解放。親子は互いに隻腕となり、決戦のお時間がやって参りました。戦いの最中に狼と梟の出会いがプレイバックしますが、二人の親子関係が全く描写されていないので、あんまり感情移入ができない。悲しいことだ。梟に関しては尺の都合で思い切り割を食った形になりました。

でも、じゃあ、「影落とし、お返しいたす」は、なに?? 半端に回収されて、初見の人はどう受け取ればいいのよ。

決着の後、倅の手で荼毘に付される梟の遺体。そこにどこからか羽ばたく蝶が止まるのは、彼もまた葦名という檻の中で影として生を終えたことへの哀れみか、或いは、結局『NO DEFEAT』には登場しなかった まぼろしお蝶の、死後の寄り添いだったのでしょうか。

「人殺しにしては上等な墓だな」

言うね~。原作では悪人と知って尚、狼に親殺しをさせてしまったことを詫びていた御子でした。しかしそれは原作の御子があくまで庇護のもと、傍観する立場でしかなかったからこそ出た言葉でしょう。『NO DEFEAT』の御子は違います。狼の苦境へと積極的に介入しようとする。道具を持たない狼に楔丸を投げた。殺人に加担したのです。

死に際の梟の色の無い瞳は、あくまで御子の視点での梟、という見方もあると思います。即ち御子自身の、自らが殺害に加担した罪悪の顕れだったのでしょう。だからあの悍ましい死に顔から、御子は目を離すことが出来なかった。彼は襲撃者たる梟に強い敵愾心を抱いていましたが、しかしそもそも自分が存在しなければ狼の義父は狂わなかったのではないか? 村は焼かれなかったのでは? 竜咳を始めとした、竜胤による歪みは引き起こされなかったのではないか? そんな強い慚愧に苛まれたのでしょう。よって「人殺し」という誹りは、誰よりも自分に向けての言葉でした。やがて自らの命の加害性に居た堪れなくなり、直後、御子は目の前の不死斬りに飛びつきました。

しかし繰り返しになりますが、梟は損な役回りでした。あの場で「悪人でありながらも、狼の成長を心地よく思う複雑な人間性」を描いてしまうと、上記の御子の罪悪は希釈されてしまう、という判断だったのだと思います。何を描くかを優先した結果、梟はただ嫌悪感を煽る、野望の殺人者として描かれてしまった。

さらば梟、永遠に。我々だけは、お前があんまり酒に強くないと知っている。

注連縄ロボ大地に立たず!

竜胤断ちの条件は不死斬りを手に入れたことで揃いました。他は全部カットです。

香の素材集めもしない、源の宮にも行かないということは、必然、みんな大好き注連縄ロボも登場しません。注連縄ロボとはざっくり言えば「巨大な形代」であり、形代、忍び義手、御霊降ろし、怨嗟の鬼と相似の関係にあります。即ち「人の形、或いは人そのものを器として、そこには人の想念が宿る」というあの世界の性質を、相似の描写で語り尽くす為に設置された舞台装置の一つ。なので、形代も鬼も登場しないなら、注連縄ロボもまた必要ないのさ。

不死斬り一振りあればいい

というわけで不死断ちには不死斬り一本あれば良いらしい。御子か、契約者である狼が死ねば竜胤を断つことが叶うと。

ここは何か一つ欲しかったですね。条件が明らかになった今、狼は御子を犠牲にするつもりなど無いし、御子は御子で自分が死ねば良いと思っているわけで、そこで衝突する二人の想いを吐き出す場は設けて欲しかった。梟が死んだ後、御子が不死斬りに飛びついた辺りがその機会だったと思うんですけどもね。

人物の心情を置きざりにして話だけが前に進んでいく。

黒の不死斬り

もう一組の主従、一心と弦一郎のパートです。

一心より弦一郎に一振りの太刀が贈られました。黒の不死斬り「開門」です。知ってる人は知ってるでしょうが、原作冒頭で一心が敵将 田村を討ち取った際に使用した得物が「開門」でした。なので弦一郎はこれをどこで入手したのか、について「一心が持ってた」とするのはスマートな整理の仕方だったと思います。原作の一心はどうも既に手放していたようですが、『NO DEFEAT』ではずっと手元に保管していたと。

そうして譲り受けた不死斬りで、弦一郎は何を為すのか。一心は自らの首を刎ねろと言います。それを持って内府と和睦を結べと。

未だ竜胤は手に入らず、内府軍に対抗する術はない。弦一郎は言われるがまま一心の首を刎ね、内府へ和睦を申し入れました。しかしここで誤算が生じます。一心は既に竜咳の罹患者であり、その影響で遺体は花と散ります。当然、敵本陣に送られた首も。かくして和睦は流れ、終に本格的な開戦の、むしろ切っ掛けとなってしまったのでした。

ここは映画オリジナルの竜咳設定を組み込んだ上手い展開……と思いたいところなのですが、そもそも和睦の申し出を内府が受け入れますかね。あいつら竜胤が欲しいし葦名が邪魔だけど一心にビビッてた訳でしょう。だったら老いた一心の首だけ差し出したところで、なんやかんや理屈をつけて攻め入ってくる気はするんですよね。

それを予見していたからこそ一心は「開門」を、その真の用途を言い含める形で弦一郎に譲ったのでしょうが、はっきり言います。『NO DEFEAT』においてここだけが明確に気に喰わない。

赤に備えよ

戦争が始まります。内府軍の赤備えが葦名を制圧していきます。赤備えとはそもそも赤一色の甲冑で士気高揚を狙ったものと聞きますが、此度の赤備えは恐らく葦名が抱える「赤鬼」対策を兼ねていると考えます。現に原作 赤備えのモブは「前方にふわりと跳び二刀で傷を開くように切り捨てる」剣技を放ってきますが、これは別のフロムゲー(『DARK SOUKS 3』)に登場するある戦技に酷似しているのです。名を「鬼切」。

そうして備えた内府軍が、戦場に現れた本物の「鬼」に蹂躙されるという痛快さがあるんですが、そこまで拾ってくれとは言わないものの、せめて戦争の最中に内府軍と戦う赤鬼の一人、火牛の一頭くらい出してくれてもバチは当たらなかったんじゃないでしょうか。観たかったよ。ドロップキックする赤目の外人レスラー。

「ありがとうよ」

なんか諸々片付きそうなんで、そろそろ斬って貰っていいかなと半兵衛。今の狼は不死斬りを持っているので、あの時とは違う。死なず半兵衛、死ぬ時ぞ。

一方その頃、荒れ寺が内府軍の襲撃を受けます。狙いは当然御子。

ここでエマが「戦える者」だと判明、既に赤備えは数人斬られています。人を斬りたいなどとは露ほどにも思わない、そう原作で語った彼女ですが、人を斬ったのは初めてのことでしょうか。一心直伝の柔らかな剣筋が迸り、それでも押し切られそうになるエマを仏師が助けます。彼もまた強者ですが、その正体が何者であったかを一切明かさぬまま、理不尽な物量に刺し貫かれ死亡しました。「ありがとうよ」、それだけをエマに言い残して。

一瞬 死後に変化して暴れ回るんじゃないかとドキドキしましたが、まあカットですよね。収拾がつくとも思えない。代わりに半兵衛が乱入し、御子たちは寺を脱出します。不死斬りは寸前で中断されたようです。

ドリームマッチ! 弦一郎 VS. エマ

そうして御子はすすき野に帰ってきました。待つのは やはり葦名弦一郎。この時 狼は御子をエマに任せて別行動を取っており(たぶん数珠玉の回収かスキルポイントを稼ぎにいった)、竜胤を求める弦一郎とエマが刃を交えることになります。ドリームマッチの実現です。

個人的にはこの勝負に最も見応えを感じましたね。「その剣気、剣才! 羨ましいぞ!」という台詞も熱い。恐らく共に一心から剣を学んだ弦一郎とエマですが、弦一郎はどちらかと言えば弓の才に秀でていた印象です。剣聖の剣をより深く正確に受け継いだのはエマだったのだろうと、少なくとも弦一郎はそう思っていることが伺えます。しかし争って負ける気はない。弦一郎の斬撃がエマを捉えます。傷はそこまで深くない。しかし どうしたことか、エマの口から血が吹き出しました。竜咳です。

『NO DEFEAT』の竜咳は治癒の方法が存在しないのが恐ろしいところでしたが、どうも狼の死亡回数に対応していなさそうなのも恐ろしい。把握している限り狼は劇中 二度しか死んでいませんが、竜咳に罹った人間は、これで 4 人でしたか。見ていないところで狼が死亡回数を稼いでいるか、或いは回生とはこれほど多くの命を要求するものなのか。。

あとこれは原作でもおざなりになっていたことですが、弦一郎は最期まで竜咳という回生のデメリットを把握していなかったと見られます。仮に弦一郎や葦名の兵が回生の力を扱う if があれば、それは竜咳による葦名の滅亡を意味するでしょう。それを予測できない弦一郎ではないと思うので、彼は竜咳について何も知らなかったのだと思います。それとも知って尚、内府に抗する力を欲したのか。

そして終に御子も、その黒い凶刃の餌食となります。すわ終わりか! 誰もがそう思ったその時、御子の忍びが参上しました。

開門

狼と弦一郎、現在一勝一敗です。始まりのすすき野で、決着がつこうとしています。

そして始まる不死斬り同士の戦い。私見ですが この戦いは、実際には狼にとって不得意なものとなる気がしています。というのも不死斬りは大太刀であり、当たり前に楔丸より大振りの道具として作られています。原作ゲームにおける忍びの剣技とは、威力で勝る相手の攻撃を弾き、受け流し、体幹を崩したところで必殺する技術でした。平時でも大太刀を振り回す梟のような巨躯ならともかく、狼にとって大太刀で扱う技術ではないと思うんですよね。

とはいえ迫力はありました。赤と黒の斬撃の応酬、互いにそれを紙一重で躱す見切りは小気味よい。そして結果として、狼は勝りました。

敗れた弦一郎を追い詰めるように、城が燃え落ちます。葦名が崩れていく。それを呆然と眺める弦一郎は、黒い不死斬りを首筋に宛がい、強く引きました。竜胤を供物に、これが「開門」の力。

剣聖 葦名一心。その全盛の姿が、黄泉から帰って参りました。

その資格は無い

『NO DEFEAT』の登場人物は、その多くが原作とは異なる解釈で描かれています。恐らく皆様も自分なりの賛否はお持ちでしょう。個人的には原作からのある程度のブレは見受けられつつ、確かにそのキャラの魅力が十分に描き切れていないとは思いつつも、全くの別人とまでは言えない範疇に収まってくれていたように思います。ただ一人を除いて。

葦名一心ただ一人、その範疇を超えた、と考えます。あれは駄目です。

とは言えずっと葦名一心として格好よく描いてくれていたとは思うんですよ。原作に無い弦一郎とのやりとりも嬉しかった。終盤で原作に無い和睦の申し出も、無理筋だったとは思いますが、老い先短い命の使い方としてはあれしか無かったのでしょう。しかしその直後、彼は弦一郎に「開門」を差し出し、あろうことか「竜胤を供物に」と述べてしまった。

どう解釈したもんかと迷ったんですが、つまるところ必要であれば「開門」の力を使えと言っている。御子を犠牲にせよと。多くのキャラが原作通りとは行かないまでも、その行動原理や信条までは崩さなかったにも関わらず、一心のこれだけは明確に心変わりです。別人と言っていい。弦一郎の覚悟を賞賛しつつも、その手段までは最期まで認めなかったはずなのに、『NO DEFEAT』ではこれを受け入れてしまった。

弦一郎は「開門」の間際に言いました。「竜胤が、この国を生かす」。そして「開門」の後、一心は述べます。「この葦名を、黄泉帰らせねばならぬ」。二者の台詞から分かる通り、弦一郎にとってはまだ息のある葦名を助ける為の戦いのつもりでしたが、一心にとって葦名は既に死んでいる。

死者は返らない。戦国の世、剣聖と謳われるほどまでに人を斬り続けた者が抱く不文律であり、もし仮にこの不文律が崩れることがあるとすれば、それは死後、自らの孫が命を差し出してまで黄泉から呼び戻した後の話でしょう。だから黄泉帰りを果たした一心は、本当に心から仕方なく、孫の願いを叶える為に再び剣を振るう……この順序、導線で無くてはならないんです。

しかも原作通りに「憐れな孫の最後の願い」と言ってくれてましたが、その手段を教えたのも、背中を押したのも あなたでしたよね。という話ですよ。助けてくれ!

『NO DEFEAT』では一心と弦一郎がまだ若さを残す頃の回想が描かれました。そこで若き一心から語られる、葦名もずっと同じ姿のままではないという言葉は、いずれ来る変化、或いは終わりを説いたものでしたが、一心の心は最後まで弦一郎には伝わらなかった……これほど感じ入る回想を描いておきながら、なぜあんなことに……。

敗れた一心が「やれぃ!」と自らの首を差し出す名シーンがカットされていましたが、これは恐らく事前に弦一郎が一心の首を刎ねるくだりをやってしまったので、二度目を外したのでしょう。更に言えば、一心たちのそれを、終盤で御子が狼に対し行うそれとの対比にするため安易に繰り返すべきではないと判断したのだと思います。

というか、むしろ無くてよかった。なぜって「やれぃ!」は、「介錯」だから。単なる斬り合いの決着ではないんですよ。剣聖が、不死であるが故に幾らでも立ち上がれるはずの一心が、隻狼が自らを上回った事実を穢さぬため、不死の論理を武者の論理でねじ伏せる儀礼でなくてはならない。狼はその意志に応えただけ。

転じてこのシーンは、人の意志は竜胤をねじ伏せ得るのだという、一貫して竜胤の活用を拒否した一心の心意気です。受け入れてしまった『NO DEFEAT』の一心に、その資格はない。

さよなら、これでよかったのよ。

あ、タイトル回収しないと

そういや隻狼って呼ばれるくだりやってなかったなと思ったらあのタイミングで行い、それに対して「我は狼」は、話が違うじゃないですか。なんで不要な文脈を乗せてしまうんだ。

分かるんですよ。序盤の回生お披露目の時、「これが竜胤の力……!」と感嘆する弦一郎に向かって「違う。九郎様の力だ」と返した、あれと対応してるんでしょう。主を竜胤の入れ物であるかのようには扱わせない、そして「名を与える」と主君ぶる一心に向かって、主は御子様ただ一人であると、『NO DEFEAT』の狼は終始 御子の忠臣であり続けました。

やりたいことは分かるんですが、どうか物語のタイトルが『隻狼』であることを思い出して欲しい。隻狼の名は序盤でさらりと語られ、そしてその名を与えた者が最後の敵だった、この塩梅が素敵だったと思う訳なんですよ。

ついでにもう一個聞いてくださいよ。滾ってきた一心がどこぞより十文字薙刀を取り出しますが、『NO DEFEAT』では何か異空間から呼び出す形になってました。でも多分そうじゃないんですよ。ゲーム内やアートワークで見てもらうと分かるんですが、すすき野ってそこらじゅうに武器が落ちてるんですよね。葦名流は、使えるものを何でも使う一心の流儀を研磨し束ねたもの。だからあの十文字薙刀は何か特別な武器とか、異端の力とかではないんです。たぶんあのすすき野にたまたま落ちていた道具を、これでいいかと拾って使ってみただけだと思うのです。でも強い。なぜならそれが葦名一心だから。

とまあ、色々言いたくなる一心周りのあれこれですが、ともかく狼は終に剣聖を破ります。死ぬべき不死は、後ただ一人、いや二人か。

さらば、死なず半兵衛

剣聖撃破の後に荒れ寺に戻る一行は、そこで待つ半兵衛と再会します。半兵衛さん、あの赤備え全員斬ったの?

ともかく無事に生き残った半兵衛は、再会の安堵も束の間、狼に切り出します。「いいかな?」

原作よりも飄々とした印象の半兵衛でしたが、最後の処理に関してはもうちょっと何かなかっただろうか。「いいかな?」じゃないのよ。何なら、あそこちょっと怖かったからね。

そして不死がまた一人逝く。死ぬべき不死は後一人。

荒れ寺、まこと広うなり申した。

絶望の旅

弦一郎から狼へ。一心から御子へ。主従それぞれの立場で交わされる問答。「なぜ死ぬ?」「なぜ生きる?」

そして二人は、自らの中に死ぬ理由と生きる理由が等量 存在すること知った、そんな感じだと思っています。

『NO DEFEAT』では不死斬り一本で済んでしまう程に簡略化された不死断ちでしたが、だからこそ原作とは異なり、出さなければならない答えが存在します。「なぜ死ぬ?」「なぜ生きる?」。これは狼と御子 二人の物語です。原作のように主が眠る間に答えが出たりはしない。

きっとここから先が『NO DEFEAT』の主題です。迷えば敗れるとは本作の一つの真理ですが、本当にそうでしょうか。迷わなければ出せない結論もあるのではないか。そんな一欠けらの反証の為に、『NO DEFEAT』は二人にしばしの暇を与えることとなります。

「生きることへの絶望なしに、生きることへの愛はない」

ここで冒頭のアルベール・カミュからの引用が効いてくるわけですね。正しく捉えられているか自信ありませんが、生きるということは形を変え、いずれ滅ぶことも内包する。いつか朽ちることに絶望できるなら、それは生あることを愛せている証だと、こんな理解をしています。終盤の回想で若き一心が弦一郎に語った葦名の変容にも通じる話です。一心は葦名を愛していて、弦一郎も同じ気持ちだったが、生が抱える絶望に彼は耐えられなかった。

そして狼と御子の二人は旅に出ます。絶望を受け入れる為の旅でした。

光の斑

「遠くまで離れた」といっていましたが、どこまで歩いたのでしょうね。葦名の外には至ったのでしょうか。

道中の茶屋描写がニクいですね。御子が茶を運び、狼がそれを受け取る。どんなやりとりがあったか分かりませんが、既に主従の境界は融和しつつある。これは皆が懸命に茶屋エンドを叫び続けたからこそ描写された一時だと思います。生きることは無惨ですが、夢を見ることはできる。生きていなければ見られないものを。

旅の道中、一人佇む狼の眼下には、自らが斬り殺した者たちが横たわります。それらを見つめる瞳は、竜胤に狂い死んでゆく梟を見つめる御子の瞳と同質のものだと推測します。竜咳だけに留まらない。二人が追手という火の粉を払い続ける以上、彼らが生きているだけで人は死んでいく。その業を確認する為の旅でもあったと思います。

迷えば敗れる。しかし彼らは迷う為に旅をしている。ならばこれは敗れる為の旅なのか。

ちなみにですが挿入歌はそこまで嫌じゃないですね。唐突な英語の歌詞も、記事冒頭で指摘したような「あえて」を狙ってのことでしょうし、やりたいことは分かります。ただねえ、涙を流しながら眠る御子のグルグルとした心情を表すような輪唱部分が結構悪さしてると思っていて、表現したいことは理解できるつもりですが、普通に耳障りでしたわよ。

「人として、生きてくだされ」

「ここだ」と決めていたのか、そこに立った時に「ここだ」と決めたのかは分かりませんが、ある湖面、そこが二人の旅の終着点となりました。

「まだ絶望が足りない」と御子。この場合の絶望が生を愛し受け入れる為のものであるなら、恐らくですが「なぜ生きる」という一心の問いに答えたあの時に、結論そのものは出ていたのでしょう。しかし狼のいない世界で生きていく、その覚悟が、絶望がまだ足りない。

話の途中で何ですが、このシーンで好きなところは二人の立ち位置ですね。狼は水中に足元を沈める形で立ち、その横に突き出した岩の上に御子は立っている。必然、両者の身長差は埋まり、視線はほぼ横並びとなります。この瞬間、彼らは対等でした。

「凪いだな」と御子。風で波立っていた水面が落ち着き、そしてそれが合図となったように、不死断ちが行われます。まだ絶望が足りない。しかし時が来たことを両者は同時に悟ったのでしょう。

これは主が眠る間に行われる、狼(我々)の手で行われる不死断ちではありません。二人の不死断ちです。だから狼が背負った業を九郎も共に背負わなければフェアではない。御子が人に返る、その責任を本人に取らせる。惨いことですが、彼を一人の独立した人間と認める為の儀礼なのです。

そして竜胤の御子とその忍びは旅を終え、九郎は人に返りました。

NO DEFEAT

というわけで「人返り」エンドでした。ちょっとだけ茶屋エンドだったかもしれない。狼の墓前でエマと共に手を合わせる九郎は、立ち上がり再び旅に出ます。

概ね原作通りなのですが、異なるところもあります。旅立つ際に、九郎が墓前に添えられた楔丸に触れるのです。それが「行ってきます」なのか「連れていく」為なのかは分かりませんが、この時の九郎は笑ってエマと別れました。原作の、狼に生を託されて旅立つ九郎の凛々しさとは、また抱えるものが違うはず。

『NO DEFEAT』を完璧な、これぞと賞賛する映像化だったとは申し上げません。賛否分かれて然るべき作品だったと思います。しかし思っていたよりも多くのものが注がれていて、非常に見応えのある内容でした。TOHO シネマズ 錦糸町はパンフレットを入荷してください。銭はあるんです。

『SEKIRO: NO DEFEAT』。迷い続けて、それでも敗れなかった二人の、旅のお話。

おわりに

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